東大→外交官の夢 小林秀雄『無私の精神』で進路変更
地域医療機能推進機構理事長 尾身茂氏

尾身茂氏と座右の書・愛読書
予期せぬ出来事の多い人生でした。高校生のころは外国への憧れから、外交官か商社マンになりたいと考えていました。それで3年生の途中からAFSという世界的な非営利団体のプログラムで米国に留学したのです。楽しい1年でした。

おみ・しげる 1949年生まれ。自治医科大卒。世界保健機関(WHO)でポリオ根絶などに携わる。WHO西太平洋地域事務局長を経て、2014年から現職。
帰国後は東大に入って外交官になろうと決めました。ところが、学生運動によって東大の安田講堂が占拠される事件が起こり、入学試験がなくなってしまったのです。やむなく別の大学の法学部に入りました。
その大学でも学生運動のため授業がなく、することがありません。東大を受け直すか、もんもんと考えました。おまけに当時の学生の中には、外交官は敵である権力側の人間とみなす雰囲気がありました。目指した仕事は就いてはいけない仕事なのかと悩みました。もうどうしていいかわからない状態でした。
そんなときに読んだのが小林秀雄さんの『無私の精神』です。この本は「実行家として成功する人は、自己を押し通す人、強く自己を主張する人と見られ勝ちだが、実は、反対に、彼には一種の無私がある」というのです。自分の気持ちを捨て無私になること、そしてもっと客観的なものの動きに順じることも大切だと教えられました。これは当時の私には衝撃的でした。心が軽く、強くなったと思います。
次いで『わが歩みし精神医学の道』という本を偶然手にします。プロ野球のコミッショナーも務めた精神科医、内村祐之さんが書いたものです。実は内容はほとんど覚えていません。ただこの世に医師という職業があることが心に刻まれ、それが救世主のように感じられました。そして大学をやめ、医学部に入り直して医師になろうと決意したのです。
受験勉強を始めると、ある新聞の1面に「自治医科大学が1期生を募集する」という記事が載りました。卒業後、へき地で勤務すれば授業料はタダになるというではありませんか。これ以上は親に迷惑をかけられません。迷わずこの大学を目指すことにして、運良く合格しました。これが私が医師になったいきさつです。この2冊がなければ今の私はなかった。不思議な感じがします。