「要素開発課」で深掘り、失敗を糧に新技術を磨く
オークマ 家城淳社長(上)

オークマの本社工場
最終赤字に転落するなど業績不振が続いていたオークマは00年、復活に向けた「新生プラン」の策定に着手しました。会社の危機感は相当強く、営業や企画などから人材が集結。私も技術部門の一員として議論に加わりました。
課題は明確でした。研究開発の目的が高速化や精度向上など既存製品の改善に偏っていたため、革新的な技術が生み出せなかったのです。そこで私は技術の基礎を深掘りする「要素開発課」の設立を提案。自ら課長に就きました。
組織をマネジメントし、会社の収益向上を目指すうえで役立ったのが読書の習慣です。マーケティングや企業戦略の経営書をはじめ、仲間を鼓舞する方法まで様々な本を読んできたことが、視野を広げることにつながったと思います。

いえき・あつし 1985年(昭60年)大隈鉄工所(現オークマ)入社。2012年取締役、18年副社長。19年から現職。愛知県出身。58歳。
新しい技術を生み出そうと野心を燃やしていた矢先、試練に見舞われます。有力自動車部品メーカーに納入した「5軸加工機」の故障が相次いだのです。傾斜のある金属部品を高速で削り出す、精密加工には欠かせない機械です。顧客の強烈なラブコールを受けて納入しました。
量産を始めると、試作では分からなかった問題が噴出します。この機械では負荷に耐えきれず、電気ケーブルの劣化などトラブルが相次ぎました。
当社が納入した製品で顧客の生産計画を遅らせるわけにはいきません。影響を最小限にとどめるため、開発やサービス部門だけでなく全社で臨戦態勢を構築しました。当時、熟睡した記憶はありません。逆に、エアコンも利かず、蒸し風呂のような工場のソファで2泊したことを今も鮮明に覚えています。
徹底して対処したことで機械はいまも高い生産性を維持していますが、販売はぱっとしませんでした。サイズが大きすぎ、狭い生産ラインでは不向きだったのです。技術者は良い製品をつくることを意識しがちですが、長期にわたって顧客に使ってもらえなければ本当の価値は生み出せません。この経験はものづくりの考え方を見直す契機となりました。
要素開発課では人工知能(AI)など、最先端の研究を自由に手掛けることができたため、会社人生を振り返っても楽しい時期でした。当時はAI制御などを議論すると、他部門から「手塚治虫の世界だね」とからかわれたものです。しかしこれが、今のオークマを支えています。社長になった今、改めて基礎技術の重要性を感じています。
あのころ……
日本の工作機械業界は1990年代後半に不況に苦しんだ。円高により海外生産が進みオークマも台湾や中国に積極的に進出して事業拡大を目指した。一方で2001年の米同時テロもあって米国子会社の生産を縮小するなど、難局の時代でもあった。