「ビールに執念の遺伝子」サントリー佐治氏、父を語る
サントリーHD会長 佐治信忠氏に敬三氏を聞く


元サントリー会長で元大阪商工会議所会頭の佐治敬三氏
祖父は商売人、父は学者タイプ
――父親である敬三氏はどんな存在でしたか。
「家では寝っ転がって本を読んでいる印象。ゴルフもしてたが、どちらかと言えば本を読んでるほうが好き。もともと大学でも化学を専攻していた。まあ学者タイプですな」
「創業者の祖父(鳥井信治郎氏)は根っからの商売人だったが、おやじは実はそうではないんです。たぶん、研究者になりたかったんでしょう。経営者になり、ずいぶん努力したんでしょうね」
――祖父、信治郎氏と父親、敬三氏のタイプは異なると。
「おやじは旧日本海軍で技術将校をしていました。じいさんが終戦後に米軍にすぐウイスキーを売りに行ったことに、おやじはずいぶん反発したらしいです。じいさんは大変な商売人で、GHQ(連合国軍総司令部)に乗り込んでいって、2種類のウイスキーを売ってそれで終戦直後をしのいだんですな。おやじも若くて帰ってきたばかりだからけしからんと」
――自分自身で祖父と父親のどちらに似ていると思いますか。
「どちらかと言えば、祖父のほうを受け継いでいるかもしれないですな」
――そもそもなぜ、佐治さんはサントリーに入社したのですか。
「大学生のころには入社しようと思っていた。自然だろうと思っていたし、これからはグローバルだと感じていた。まだまだグローバルという時代ではなかったですが、自分も海外留学などをしてみて、将来は世界に出ていかなければ、と思っていました」
「あかんやつはあかん」

サントリーホールディングス会長 佐治信忠氏
――敬三氏から何か言われましたか。
「おやじは『どうせい、こうせい』というタイプの人間ではないし、経営者になれるかどうかも本人次第だと。『あかんやつはあかん』とよく口にしていた。もちろん(自分に対して)期待はしてくれていたんでしょうが、何がなんでもと強い意志を打ち明けたことはなかったですね」
「おやじは自分の背中を見せるという感じでしたね。照れ性というか、面と向かって息子にいうのは苦手というか。ずっと『あかんやつはあかん』を繰り返してましたよ。そうそう、自分に何もいわないおやじでしたが、『理系の大学に進学してほしい』とは結構いわれました」
――敬三氏が残した一番の業績は何だと考えますか。
「やっぱりビール事業に参入したことでしょう。それで今のサントリーがある。ウイスキーだけだったらつぶれていたでしょうね。ウイスキーは手工業的な世界ですが、ビール事業に参入したことでサントリーは近代的な企業に生まれ変わった」
「なぜ参入しようと思ったか理由は聞いたことはありません。ただ、祖父も過去に失敗していたから弔い合戦というような気持ちもあったんでしょうね。ビール事業は資金の回転も早く、いわば装置産業です。近代産業で会社を変えた。そこは大したもんだなと思いますよ」
違うものをやりたい
――ただ、ビールは長く苦戦しました。
「ビールは10年で10%のシェアをとれると思っていたらしい。当時は10%あれば事業として安定した。晩年はこんなことを言ってましたよ。『ウイスキーがあんなに売れるとは思ってなかったし、ビールもあんなに苦労するとは思わなかった』、とね」
「ビールは当時、苦いゲルマンタイプのビールが主流でしたが、わざわざデンマークタイプを出した。『自分は違うものをやりたい』という思いでしょう。ただ、それは良かったんだけどヒットしなかった。しつこくやって『純生』というビールを出して一息ついたが、徹底的に改善するまでには至らなかった」
――敬三氏は文化活動にも力を注ぎました。
「経営だけじゃなく文化にも力を注いだ。美術館やサントリーホール、文化財団の設立とか興味を持ってやっていた。今は企業の社会貢献は当たり前になっているが、おやじは気付くのが早かった」

いつも「なぜ」を5回聞く
――敬三氏の好きな部分はどこですか。
「理論的なところだね。いつも『なぜ』を5回聞くぐらい。執着心というか、粘り強い執念を持っている」
「しつこくビールならビールで成功しようみたいな遺伝子は受け継がれていると思う。しつこさ、執念みたいなもの。自分もそうだが、おやじもグローバル化を気にしていた。じいさん、おやじときて自分もそういうのを引き継いでいると思う」
――サントリーはどんな会社になっていくべきだと考えますか。
「サントリーの製品が世界に出て行くというのが大きな夢ですね。あと利益三分主義という考え方。利益を社会貢献にも使うという思想を受け継ぎ、これも世界で広めていきたいですね」
(代慶達也 名古屋和希)
敬三氏のミニ評伝「サントリー中興の祖 佐治敬三氏 」もあわせてお読みください。