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創業者、航空機参入表明 「花の38組」入社

1990年に4代目の社長に就任した川本信彦氏、後任社長の吉野浩行氏、技術担当の副社長だった入交昭一郎氏、長く販売トップだった元副社長の雨宮高一氏の4人はいずれも63年に入社した。宗一郎氏は91年に死去するが、90年代からこの4人が10年以上にわたってホンダの経営をリードした。社内では「花の38(サンパチ)組」と呼ばれる。4人は宗一郎氏の息子と同世代なので、ホンダの第2世代にあたる。吉野、入交両氏はともに東大工学部で航空工学を学んだ親友でもある。

東大工学部には1学年に1000人余りの学生が在籍するが、最難関の学科は今も昔も航空工学といわれる。卒業生は現在の宇宙航空研究開発機構(JAXA)など公的機関か、航空宇宙事業部門を抱える三菱重工業など大手重工メーカーに入社するのが定番だった。

「本田さんに見事にだまされた」。かつて吉野氏は笑いながらこう語った。航空開発をやれると思って入社したが、そんな部署はどこにもない。38組だけではない。2009年に社長となった伊東孝紳氏も京都大学で航空工学を専攻。車体技術者となり、スポーツカー「NSX」開発などで頭角を現した。結局、飛行機野郎たちがホンダの新車開発をリードしてきたのだ。

ホンダ創業者 本田宗一郎氏

ホンダ創業者 本田宗一郎氏

ホンダジェットの開発はスムーズに進んだわけではない。「挑戦企業」とのイメージが強いホンダだが、極めて慎重な会社だ。販売部門幹部からは「トヨタ自動車も手を出さないのに、何でウチがそんなリスクの高い事業をやるのか」。「そもそもビジネスジェットのニーズは限定的。米国の富裕層ぐらいしかなく、採算の見込みがつかない」と何度もダメ出しされた。技術部門幹部からも燃費改善や安全性確保など様々な課題解決を求められた。航空機開発計画は何度も頓挫しかけたが、吉野氏らの後押しもあり、一歩一歩進んでいった。

藤野氏は「自らスケッチした」という独創的なデザインをベースに様々な改善を加え、経営陣の厳しい要求に応えた。1997年に正式にホンダジェットの開発が米国でスタートした。目指すのはホンダらしくあくまで小型機。米国の新車市場を開拓したのは燃費効率のいい小型車「シビック」だった。現在も米国のトップブランドだ。「空飛ぶシビック」をつくろうと開発・生産体制が整えられ、03年12月には初飛行を遂げた。

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