シャープ元社員が伝えておきたい「後悔しない働き方」
ミドル世代専門転職コンサルタント 黒田真行
いくら業績が悪化しても、決してシャープのすべてが悪いわけではない。ものづくりの精神、大阪商人の魂、超大手はやらないがニーズがあるものをつくって市場を生み出す柔軟性、会社は確実に変わるだろうが、40代を中心にシャープの地道なモノづくりのDNAが継承されることを信じて退職した。
想像以上に苦労した転職活動 そこで学んだこと
9月末に退職を決意、10月1日から転職活動をするはずが、シャープ側の事情で11月にずれ込んだ。活動を始めてすぐに自分の見立ての甘さを痛感する。自分の経験を生かせる仕事を、と思ったが、統括部長という肩書が邪魔をして、エージェントからも「あなたの処遇に合うポジションがない」という理由で不採用が続く。
求人があった場合でも、競合企業がシャープでの肩書や人脈を期待する一時的な顧問の打診がほとんどだった。人脈を売るだけの仕事はしたくなかったし、そもそもどんな人脈も2年もすれば入れ替わって使い物にならなくなることは見えていた。50歳を超えた転職活動がここまで厳しいとは思ってもみなかった。それでもモノづくりのDNAや、企画の実務能力を生かして、たとえ一兵卒になったとしても自分の能力を発揮できる職場にこだわった。
官公庁が主催するビジネスナビゲーターや企業の顧問としての仕事も2、3社やってみたが、「企画書についてアドバイスしてくれ」と言われたものを見ると、詰めが甘すぎて使い物にならない。やんわりと指摘すると「そこまで言われたくない」と怒ってしまう。評論家やご意見番として聞こえのよいことを言っていても、その会社のためにならないし、成長もしない。自分が一体感を感じられない仕事には、面白みがないこともよくわかった。
さすがに4月からは新しい仕事をスタートさせたいと考えていたところに、たまたま畑違いの商社から声がかかり、経営企画の仕事をすることになった。
中長期的な営業戦略立案から、現場の営業支援業務まで横断的に担当する職場だが、トップのそばで仕事ができるし、自らパソコンで作業をこなしながら戦略を描ける仕事にはやりがいを感じている。現場重視主義で、汗をかいてコミュニケーション量を重視する気風も自分に合っている。シャープも最初はそうだったからだ。
リストラの最中に何十人もの部下と面談した中で、自らのキャリアを見つめ直す機会があったことも大きい財産になっていた。「業界をまたいでも、業務が同じなら選択肢がある」という発想で、転職活動に自分なりの軸を置いたことも功を奏したと考えている。
「液晶の次は液晶」という視野狭窄(きょうさく)

買収契約の調印式を終え、握手する(右から)シャープの高橋興三社長(当時)、鴻海精密工業の郭台銘董事長、戴正呉副総裁(現シャープ社長)=4月2日、堺市
「なぜあのとき、"液晶の次は液晶"などという傲慢な戦略を変えられなかったのか? 今になって、シャープ時代のことを振り返るとじくじたる思いがよみがえってくる」とSさんは語る。
液晶事業は、とにかく投資額が大きい。たとえば50インチの薄型液晶テレビをつくるには、巨大なガラスサイズでなければ生産効率が悪いのだが、そのために精緻で巨大な工場設備が必要になる。また、輸出のための物流コストを低減させるために、山奥の安い土地ではなく、港が近く、地価も高い臨海エリアに工場をつくらなければいけない。堺工場を操業し「液晶一本足」に振り切ると、液晶の操業度が落ちれば損益分岐点を大きく下回り、一瞬で数百億円単位の赤字が出ることも目に見えていた。