「ガキ大将」新浪剛史氏を飛躍させた翠嵐バスケ
サントリーホールディングス(HD)社長の新浪剛史氏

新浪氏は「朝5時に起きて勉強する、規則正しい生活で成績が上がった」と振り返る
小学校のときは、「こんなできの悪いやつがいるもんか」というくらいだった。それが神奈川県立でトップクラスの進学校に行ったから、小学校の先生はみんな驚くんです。「あのクソガキがなんで翠嵐に行くんだ」とね。それはバスケを始めたからですよ(笑)。
中学3年、市大会でも活躍するプレーヤーに。バスケの名門校から声がかかった。
中学3年生の中盤になると、横浜市の大会でも活躍できるようになった。そうすると、神奈川ナンバーワンのバスケ名門校、相模工大付属高校(現・湘南工科大付属高)から声がかかったんです。粗削りだけどやってみたら使えると思ったんでしょうね。
バスケだけでやっていくつもりはなかったけど、結構面白いなと思って、高校でもやろうと。無事に翠嵐に合格して、すぐにバスケ部の練習に参加したんです。そこで、相模工大や、中京大学付属中京高校(名古屋市)のような強いチームに合宿にいきました。相模工大とうちは先生同士が仲良しだったから、僕らも一緒に合宿できたんです。中京大付属にも、相模工大にも、当時のバスケット界のスーパースターがいてね。彼らを間近で見て、こんなふうになりたいなと思いましたね。
コーチ次第でチームは変わる。横浜翠嵐バスケ部は、関東大会で3位になった。
僕がいたころの翠嵐のバスケット部は、すごく強くなりました。県でも常に1番か2番。強かったのは、我々の世代だけなんだけど、高校3年のとき、関東大会で3位になりました。関東は強いチームが集まっていたんですよ。明治大学付属中野高校や京北高校(現・東洋大学京北)などバスケのエリート校が並ぶなかでうちが3位です。みんなびっくりした。
勝利の秘密は、戦略とチームワークでしょうね。コーチの方針で、防御力というか、ディフェンスを強化したんです。コーチ次第でチームは変わるんですよ。まさにマネジメントです。ヘッドコーチとサブコーチ、2人のコーチがいて、チームに合うやり方をつくったんです。
僕らはあまり背が高いチームではなかったけど、体力と走る力、そして跳躍力が強みでした。だから、しっかりと守りながら、相手のミスを誘う、という戦略を立てたんです。走る力があれば、背の高いチームにも競り勝てるし、跳躍力があれば相手より高く跳んで、こぼれたボールを拾えるから。
ディフェンスの練習ばっかりやらされました。でも、本当は嫌でしかたなかった。攻めるほうが好きだった。ディフェンスってつまんないですよね。(腰を低くして抑える姿勢をしながら)こんな格好ばっかりやらされて。