「学年1位からビリに転落」 ドリコム社長の海城時代
内藤裕紀・ドリコム社長が語る(上)
また、年齢の違う人や様々な業界で働いている社会人の人たちと知り合う機会というのは、学校で勉強をしているだけでは、なかなか得られません。バイトを通じて世界が広がったと思います。
しかし、アルバイトを始めたら勉強のほうはますますおろそかになり、成績は下がる一方。高校2年になった頃には、成績はいつも四十数人のクラスの中で下から2番目。ビリの生徒は不登校だったので、実質的には私がビリでした。成績は必ず壁に張り出されますから、自分の順位は明確にわかります。卒業までずっとビリのままでした。
高校1年の冬、家出した。

「勉強もスポーツも中途半端な状態になり、何を目標に頑張ればいいのかわからなくなっていた」と振り返る
忘れもしない1995年1月17日の朝。阪神淡路大震災があった日でした。大地震が起きたことも知らずに家を出た私は、親に電話で「家には帰らないから」と伝え、友達の家で寝泊まりしながら、学校に通いました。やがて、バイトでためたお金でウイークリーマンションを借り、そこからしばらく通学。結局、お金が底をついて、1カ月ほどで家に戻りましたが、家にあまりいない生活は相変わらずで、高校生活はますます荒れました。
思えば、中学までの私は、勉強もスポーツも1番で、何の迷いもなく目標に向かって突き進んでいました。ところが、海城に入ると一転、勉強もスポーツも中途半端な状態になり、自分で何を目標に頑張ればいいのかわからなくなっていました。そういう精神状態が家出という行動につながったのだろうと、今振り返れば、思います。
学校は休まなかったものの、バイトで疲れ、授業中はいつも寝ていました。それで先生に怒られる。成績が悪いといっては怒られる。モデルのバイトをしていた時に、ショーに出るために赤く染めた髪のまま学校に行ったら、怒られる。ピアスをしたまま柔道の授業に出たら、先生に柔道の技でさんざん投げられた挙句、「お前は畳を踏むな」と怒られる。とにかく、いつも怒られてばかりの問題児でした。
(ライター 猪瀬聖)