社訓は「やんちゃであれ」 エニグモの源流は水戸一高
須田将啓・エニグモ社長が語る(下)
友達と遊ぶときも、新しい遊びを企画したりやろうと言い出したりするのは、自分が多かったと思います。水戸一高時代は、特に仲良しの遊び仲間が私も含めて5人いたのですが、その中ではリーダー的存在でした。ちなみに、まったくの偶然ですが、血液型が全員B型で、自分たちのことを「5B(ゴビー)」と呼んでいました。
大学は慶応義塾大学理工学部に進んだ。

「数学と物理は得意で、国語が大の苦手だった」と振り返る
自由すぎたせいか高校3年になっても、相変わらず麻雀をしたりして遊んでいるクラスメートも結構いました。私自身も、それなりに受験勉強はしていましたが、がむしゃらにやったという記憶はありません。中学時代の遺産で受験した感覚でした。昼間は友達と学校の図書館で勉強し、夕方になるとそのままみんなでどこかに遊びに行くという生活パターンでした。
最初は京都大学の理系学部への進学を考えていました。受験科目に国語のない大学の中では京大がナンバーワンだったからです。数学と物理は得意でしたが、国語は大の苦手で、最初から捨てていました。高3のときの模試の成績は国語がないおかげで京大の合格ラインに達しており、受験する方向で考えていました。
しかし、東京に進学する友人が多かったため、最終的に東京の大学に行こうと決めました。国語のない私立が本命ですが、一応、国立も受けようと周りには内緒で東京大学を記念受験しました。内緒のはずだったのに、テレビのニュース番組のエンディングに自分が使われてしまい、東大を受験したのが全国放送されてしまいました。結局東大には落ちて、本命の慶応に進みました。
慶応では、20年続いた企画サークルの代表にもなりました。慶応の学園祭である三田祭で唯一タレントを呼ぶことが認められていたほど、運営体制がしっかりとしたサークルで、毎年、大物歌手やお笑いタレントを呼んで大掛かりなイベントを開いていました。
本業の学問では、コンピューターサイエンスに関心を持ち、入るのが難しいといわれていた所真理雄先生の研究室に運よく入ることができました。運よくというのは、難関との評判が立ち過ぎて倍率が1倍ぐらいだったからです。もう一人志望者がいたら、私は落とされていたかもしれません。
所先生は、日本のインターネットの父といわれる村井純先生と同じ研究室の先輩で、ソニーコンピュータサイエンス研究所(ソニーCSL)の設立者でもあります。私は所先生に師事し、ソニーCSLでアルバイトをしながら、大学院で研究を続けた後、博報堂に入社しました。博報堂ではマーケティングプランナーとして4年間仕事をしました。