工場の立ち上げと閉鎖 「2つの修羅場」が胆力育てる
キリンビール 執行役員 横浜工場長 神崎夕紀さん(下)

キリンビールの神崎夕紀執行役員は工場の立ち上げと閉鎖の両方を現場で経験している
仕事は始めるときと止めるときが難しい。キリンビール初の女性工場長となった神崎夕紀さんの場合、工場の新設と閉鎖という、2種類の「修羅場」を経験したことが、後のキャリアにとって大きな財産になった。(前回の記事は「キリン初の女性工場長 タフな交渉しきる武闘派」)
稼働前の神戸工場へ赴任
「過去を振り返り、忙しかったなあと思う時期がいくつかあります」と神崎さんは話す。1つは大学4年生と大学院生1年生の2年間。「ヒトの赤血球を使った実験をしていたのですが、いったん実験を始めると、途中でやめることができない。朝スタートしたら、終わるのは早くても午後9時ごろ。翌日はそのデータを整理して、翌々日はまた実験。サークル活動もアルバイトも全くする暇がありませんでした」
それとほぼ同じくらいの忙しさを経験したのが、1997年、新設された神戸工場に転勤になったばかりの時だった。
「3月に異動して5月に稼働開始でしたから、まさしく修羅場でした」
95年に起きた阪神・淡路大震災の影響で、神戸工場の建設は予定よりも遅れた。場所は神戸市北区の工業団地。着工は95年8月だ。
「赴任した時点で既に建屋と設備はできていて、あちらこちらで試運転が始まっていました。私は当時、品質保証担当だったので、これから稼働させる設備のチェックをしたり、基準通りの商品ができるかどうかを検査したりという仕事をしていました」
応援部隊も含め、何百人というスタッフで工場内はごった返していた。
「仕込み、発酵、パッケージと工程ごとにサンプルが上がってくるから、それを分析にかけるだけでも大変。人海戦術で乗り切ろうとするのですが、それでも人が足りなくて、徹夜で分析をしたこともありました」
工場を動かす難しさと直面
希望していた醸造部門に異動できたのは、その翌年だ。同じ工場勤務でも、品質保証と醸造担当では仕事内容が全く違っていた。
「大きく言えば、醸造担当は醸造の技術指導や工程管理が仕事になります。本社の開発部隊からレシピが来て、工場はそれを生産する。しかし、1人分のレシピを単純に100倍、1000倍にすればいいかというとそうではありません。工場の生産ラインに乗せるためには、そこからさらに細かな調整が必要になってきます」