ブラックホール撮影の陰に日本の技術 山根一眞氏語る
『スーパー望遠鏡「アルマ」の創造者たち』著者
この「アルマ」取材は、1999年、ハワイ島、マウナケア山頂で建設中の「すばる望遠鏡」の完成が近いというので何度目かの取材で訪ねた時に始まる。国立天文台の海部宣男さん(ハワイ観測所初代所長、後、国立天文台長)から、「『すばる』の次は『「アルマ」』です。ぜひその取材も」と言われ、興味を惹かれたのである(海部宣男さんは、ブラックホール観測画像発表の直後に他界された)。
「アルマ」の建設地は、チリ、アンデス山脈の標高5000mのチャナントール高原。
富士山の上に中国地方の臥龍山を乗っけたほどの高地で、酸素の量(酸素分圧)は海面の半分。人が生きていける高度ではない。
私は20代の半ばに5カ月間にわたり南米8カ国を放浪しているが、その途上、ペルーのアンデス高地、標高4800mの峠でバスが故障し立ち往生したため、高山病になった。経験したことのない、槍で脳味噌を突き刺されるような激しい頭痛と息苦しさが1日続き、このまま死ぬのかという辛さを味わった経験があり、5000mの高地に望遠鏡を作るなど無謀にしか思えなかった。
山手線と同サイズのレンズの望遠鏡
「アルマ」の建設地は、草木が一本もない荒涼とした乾燥地。そこに移動可能な66台ものパラボラアンテナを建設。その66台を移動し山手線ほどの広さに点在させると、山手線と同じサイズのレンズを持った望遠鏡になる。ブラックホールをとらえたEHTと同じ「合成開口法」による観測だ。これで人類が見たことのない宇宙の姿をとらえ、宇宙誕生の謎を解くというのだ。
そんな話を聞いて黙っていられるわけがなく飛びつき、取材を開始。
「アルマ」現地取材の際には、ブラックホールの観測成功の記者発表を行った本間希樹さんにブラックホールについて聞く機会もあった。
こうして「すばる」取材から18年後、やっと『スーパー望遠鏡「アルマ」の創造者たち』を世に出すことができたのである。
ブラックホールの観測は世界6カ所、「8台の電波望遠鏡で行った」という報道が多かったが、これは正確ではない。
参加した世界各国の電波望遠鏡はいずれも数台のセット(干渉計)だったからだ。
国立天文台の平松正顕さん(広報担当の天文学者)によれば、「アルマ」は直径12mの電波望遠鏡37台を組み合わせることで、直径70m強に相当する望遠鏡としてブラックホールの観測を分担した。他の7カ所の電波望遠鏡も複数台を組み合わせて観測したが、それらは直径10~30mに相当する規模ゆえ、「アルマ」は圧倒的な高感度といえる。つまり、「アルマ」によってブラックホール観測全体の感度を向上させることができたのだ。
「アルマ、ありがとうね」と頬ずり
私が「アルマ、ありがとうね」と「アルマ本」に頬ずりしたのは、そういう「アルマ」の大きな貢献ゆえだったからなのである。
日本の記者会見では、「それは私たちに何の役に立つのか」という質問が出たようだが、バカ言っちゃいけない。それは、たとえば「法隆寺の十倍という規模の奈良時代の大伽藍が発見された」と興奮気味に発表した歴史学者に、「その発見は何の役に立つのか」と問うのと同じことなのだから。
「私」は、ほぼ真空の宇宙に浮かぶ地球という惑星の上で生まれた。それは、私が宇宙の一部として生まれたことを意味している。つまり、「私」とは何かを知るためには、宇宙とは何かを知らなくてはいけない。それを知ろうと追求し続けてきたのが人類、人類だけが手にしてきた文化というものだ。「アルマ」の建造も「ブラックホール」の観測も、かつて哲学や思想が目指していたゴールを、先端科学も目指そうという挑戦なのである。
その挑戦を可能にするために、天文学者とともに建造を担当した三菱電機のエンジニアたち、数多くの町工場の若い技術者やオヤジさんたち、富士通のコンピュータ技術者やプログラマーたちが血のにじむような努力を続けた結果、完成したのが「アルマ」なのである。完成間近には、チリ在住の日本人天文学者が強盗に襲われ殺されるという悲劇にも見舞われたが。
『スーパー望遠鏡「アルマ」の創造者たち』は、「アルマ」の実現に向けて努力を尽くしたすべての人々に対する尊敬と感謝を込めて書いたが、その「アルマ」はブラックホールの観測成功というはかりしれない成果まで見せてくれたのである。
ノンフィクション作家。1947年東京都生まれ。獨協大卒。福井県年縞博物館特別館長、獨協大国際環境経済学科非常勤講師、宇宙航空研究開発機構(JAXA)客員、理化学研究所名誉相談役、福井県文化顧問、日本生態系協会理事、3.11支援・大指復興アクション代表などを務める。日本の技術者・科学者を取材した20冊を超える『メタルカラーの時代』シリーズ(小学館)、映画化された『小惑星探査機はやぶさの大冒険』(講談社プラスα文庫)など著書多数。