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角栄の学歴も高級官僚には引っ掛かった。角栄は最終学歴を「中央工学校卒」と公称することが多かったが、角栄が学んだ当時の中央工学校は学校制度上の学校ではなかった。厳密にはいえば角栄は1933年(昭和8年)、二田小学校(新潟県柏崎市)の卒業だ。しかし仮に「中央工学校卒」が通ったとしても大きくは変わらなかったと言える。大蔵官僚10人集めればそのうち9人が東京大学法学部卒という時代だったから、小学校卒も専門学校卒も彼らからすれば大差はなかった。

まずはお手並み拝見

学歴もなく、しかも若くて経験も少ない。腕っぷしの強さばかりが評判の角栄だった。「小学校卒の蔵相か。いったいどんな大臣になるんだ。馬力だけで大丈夫か。まずはお手並み拝見だ」。訝(いぶか)るエリート官僚たちも少なくなかった。完全にアウェー状態の大蔵省に角栄はどう攻め込むのか。マクロ経済学も財政学も縁遠い角栄にとって難題中の難題だった。悩みに悩んだか、それは知らない。が、角栄が選んだのは素っ裸になる戦略だった。大臣就任で前代未聞の演説をぶち上げたのだった。その演説とはこうだ。

「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家ぞろいだ。私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。われと思わん者は誰でも遠慮なく大臣室に来てほしい。何でも言ってくれ。上司の許可を得る必要はない。できることはやる。できないことはやらない。しかし、全ての責任はこの田中角栄が背負う。以上」

官僚たちからどよめき

心をつかむ名演説だった。日本屈指の秀才たちを前に「小学校卒」と丸裸になり、あとは「思い切りやってくれ、責任はとる」。講堂に集まった大蔵省の官僚たちからどよめきがわき起こった。これまで「田中角栄なんて」と懐疑的だった大蔵官僚もこの演説で心を開いていく。

口先だけではない。仕事もできた。「土建屋あがりの土方大臣とは言われたくないからね」。角栄はそう言って周囲を笑わせたが、いったん相手よりも下に身を置くことで秀才たちのプライドをくすぐりつつ操る。日本の台所を切り盛りしなければならない蔵相としての仕事のツボをよく押さえていた。

鮮烈だったのが角栄が蔵相になった1962年7月。経済の最大の懸案は今と同じ自由化だった。同年10月までには90%までもの自由化が進められるとされ、企業も国際競争力の強化が叫ばれていた。角栄が一番最初に片付けなければならない問題の一つが、外貨送金制限だった。

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