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――海外事業を担当したのはいつからですか。

「営業担当のSVとして働き始めてから10年ほどたってからです。本社でのSV会議で、当時の浜島俊哉社長(現会長)が『今度、中国で事業をやる』と話すのを聞きました。10年間、営業で勉強させてもらいましたし、失敗してもかまわないから挑戦したい、と感じました。私はもともと独立心が強いんです」

「後日、中四国の営業責任者として浜島社長に同行して瀬戸大橋を車で渡っていたとき、『この間の中国事業の話は本当ですか』と聞いたら『本当だ。興味あるのか』と。そこで『やらせてもらえるなら、やりたいです』と伝えると、『そうか、じゃあ覚えとくわ』。さらに日がたって、浜島社長から電話で『この間のは本気か』『本気です』『じゃあ、お前に決めた』と中国行きが決まりました」

『日本カレー』という文化を紹介する

――中国の事情に詳しかったのですか。

「土地勘もまったくありませんでした。社内にも中国に詳しい人はいませんでした。浜島社長と当時のハウス食品の社長が新幹線で会って、中国事業の話をしているうちに一緒に合弁でやりましょうと決まったそうです」

「中国で提供するカレーソースやレシピを作ったのは2003年12月のこと。そのレシピを携えて責任者として中国へ赴き、翌04年9月に上海でココイチの中国1号店をオープンしました。準備期間が短く働きづめでした」

――中国進出にあたり、現地で好まれる味などを調査したのですか。

「調べませんでした。日本のカレーライスというか、ココイチの味はこうだ、これがおいしいんだ、という芯があったからです。現地の人に『日本カレー』という文化を紹介するんだ、との気持ちでしたから、現地でのアンケートであらぬ方向へ行ってしまっては困るのです」

中国1号店の上海店での葛原氏(前列右から3人目、2004年9月上海市で)

中国1号店の上海店での葛原氏(前列右から3人目、2004年9月上海市で)

――中国1号店は開店から順調でしたか。

「いえ全く。当時、上海にカレーライス専門店はありませんでしたし、社会的にもカレーはあまりなじみがありませんでした。来店客数は1日百何十人、雨が降ると30人ほどで、経営は非常に厳しかったです」

「最初にあずかった数億円の資金も、そのうち底をつくという状況でした。『胸を張って出てきたのに』『日本ではFCオーナーに厳しいことを言っていたのに自分はどうなんだ』と悩みました。店は暇でお客様がいないことも多かったので、一人で客席に座ってずっと考えました」

女性客に照準

――起死回生の策は何だったのですか。

「朝から晩まで悩んで、ふと気づいたのです。中国人と日本人は顔つきが似ているけど、食生活は違うし、中国では日本人こそ外国人です。外国の料理に抵抗感があるのは当然だと分かったのです」

「男性客は食に保守的ですが、女性は挑戦的で、ファッション的な使い方もします。そこで2号店から『カップルがデートで使えるカフェスタイル』のデザインにしました」

「メニューも工夫しました。『オムレツカレー』では、黄色い卵焼きを乗せたご飯の周りにカレーソースをあしらい、さらにホワイトソースを添えて写真映えするようにしました。すると女性客がめちゃくちゃ増えました。1号店では男性が6割ほどでしたが、2号店は7割が女性でした」

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