絶頂だから「最も難しい問題」 田中角栄がみせた即断
元秘書・小長啓一氏に聞く(下)
「ただ、田中さんは支持率が高いからといって傲慢になるような人ではありませんでした。『俺は今太閤(たいこう)と呼ばれている。首相に就任した今が政治権力の絶頂期だ』との認識はお持ちだったようですが、だからこそ『最も支持が強い時に、最も難しい問題をやる』と考えておられたようです。そして着手されたのが日中国交正常化だったのです。田中さんは日中国交正常化を自分の政権でやることを『決断』され『実行』に移されました」
普通の政治家にはできない「決断」
――当時、日本は台湾と国交を開いていました。「台湾は中国の1省である」との立場をとる中国との関係の正常化は台湾との関係を否定することになる。相当の覚悟が必要だったのではありませんか。
「そうです。今にしてみれば、あまり分からないかもしれませんが、普通の政治家ではとてもできない『決断』だったと思います。あの頃は『日中国交正常化はまだ早い』という台湾派を中心とした国会議員も多くいました。しかも国交のない国に乗り込むわけですから田中さんに随行した人のなかには家族に遺書を残してきた人もいたほどでした」

小長啓一氏 1953年岡山大法文卒、通産省入省、70年企業局立地指導課長、71年田中角栄通産相秘書官、72年田中首相秘書官、82年産業政策局長、84年通産省事務次官。91年アラビア石油社長。
「ただ、田中さんに迷いはありませんでした。田中さんは私にいつもこうおっしゃっておられました。『中国では毛沢東や周恩来ら革命第1世代が実権を握っている。彼らの目の黒いうちにこの問題を片付けたい。日本企業でも第2、第3世代になると社内の意見が割れて大変だろう。だから第1世代が元気な今のうちに決着を付けてしまわなければならないのだ』と」
――田中角栄さんの動きも迅速でした。
「田中さんが首相になられたのは7月でしたが、その翌月には田中さんはもうハワイに飛ばれました。8月31日と9月1日、米ニクソン大統領との首脳会談に臨まれ、ここで米国に『これから訪中する』と伝えた後、もう9月の末には北京で交渉入りされました。周恩来氏とのやり取りでは厳しい局面もありましたが、頑張り抜かれ数日のうちに日中共同声明の調印にこぎ着けられました。目が覚めるような早業でした」