流れ治めた仕事師 史記にみるサラリーマン社長の条件
司馬遷「史記」研究家・書家 吉岡和夫さん

「鳳凰」。架空の霊鳥で雄が鳳、雌が凰という(書・吉岡和夫)
巨大台風などの豪雨により東日本をはじめ各地に甚大な被害があった年となりました。ちょうど60年前の1959年には、私が住む愛知県を伊勢湾台風が直撃し、5千人以上の死者・行方不明者を出しました。伊勢湾台風では貯木場から流れ出た木材が家屋など地上の多くのものを破壊し、被害を大きくしたことが忘れられません。高潮や河川氾濫の被害を抑える「治水」は、いつの時代も為政者の大きなテーマです。今回は治水によって功績をあげ、夏(か)王朝を開いたと「史記」に記された帝王・禹(う)にふれたいと思います。
かつては伝説と考えられたこともある夏王朝は、現在の中国では実在したとみられています。上海の博物館には夏代とされる青銅の鼎(かなえ)が多く収蔵・陳列されています。鼎の本来の目的はものを煮る器ですが、3本の足で支えられた半球形のものは次第に祭器として神聖視され、精巧な文様・銘文が多くに刻まれています。
この夏に先立つのは、中国の歴史でも最も理想的な治世を実現したとされる2人の帝王、堯(ぎょう)と舜(しゅん)の時代です。しかし、この2人も多発する大水害には悩まされました。
13年も家に帰らない仕事の鬼
堯は群臣の推薦に従い、鯀(こん)という人物に洪水を治めるよう命じました。鯀も懸命に仕事に取り組みましたが、9年経っても洪水は治まりません。鯀は堯の後継者の舜によって死罪とされ、鯀の子である禹が事業を引き継ぐことになりました。父の失敗を胸に刻んだ禹の働きぶりは史記にこう描かれます。
身を労し思いを焦がし、外に居ること十三年、家門を過ぐれども、あえて入らず。
治水のため動き回って知恵を絞り、外出したまま13年、自宅の前を通っても家に入らなかった――。そして左手には「みずもり」(水平を確かめる器具)と「すみなわ」(直線を確かめる器具)、右手には「ぶんまわし」(円を確かめる器具)と「さしがね」(直角を確かめる器具)をいつも携えていたと書かれています。

イラスト・青柳ちか
禹は全土を九つの州に分け、すべての川を測量し、水がたまるところにはしっかりとした堤防を築きました。同時に各州を道路でつなぎ、山々も調べあげました。
舜は禹の労に黒い宝玉をもって報い、治水の成功を宣言しました。人々が水害を心配せずに暮らせる理想の治世です。楽官が音楽を奏すると鳳凰(ほうおう)までが天を舞いました。
舜は、禹を後継者に指名します。堯から舜に代替わりしたときと同じように、世襲ではなく、徳のある者に天子の位を譲る「禅譲」です。舜が亡くなると、禹は舜の子の商均(しょうきん)に位を譲ろうとして朝廷を去りますが、諸侯がみな禹のもとに集まってきたために自ら帝王となることを選びます。これが夏王朝の初めです。禹は、出世を通り越して天子の位に上り詰めました。
禹の仕事ぶりは現代の「働き方改革」のモデルとは正反対のようですが、大きな仕事を成し遂げるには、つらい仕事を自ら率先して行うことが必要ということでしょう。司馬遷は禹が全国を巡り、各地でどんな事業に取り組んだのか詳細に記しています。先頭に立って行動する禹の姿を貴いものとみたように思われます。