仕事に厳しく人に優しく 顧客に学んだ働くということ
日本IBM社長 山口明夫氏(下)
「こうした考え方は、私が外資系企業で働き、海外で働いた経験も大きく影響していると思います。米国本社の勤務では友人がたくさんできました。英語が上手でない私に、イタリアやブラジル出身の同僚がすごく優しく接してくれたのです。初めて日本人であることを意識したのと同時に、一人の人間として受け入れてくれたといううれしさを感じました」
「一方で、ニューヨークのマンハッタンを歩いていたら、石を投げられたこともありました。異文化の中で働き、受け入れてもらえたり、反対にコミュニケーションをうまく取れずに嫌な思いをしたりしました。しかし、誠実に頑張れば、理解して認めてくれる人が現れるのです」
プロとしてしっかり。でも人に優しく
「どこで働こうと、仕事には厳しく、プロとしてしっかりやる。でも人に優しく――という軸を守りたいですね。特にリーダーとして人と接するときに、必要なことだと思います」
――そうした仕事との向き合い方の原点は何ですか。
「和歌山県の実家が農家で、ミカンや桃を栽培していました。父も母も祖父も祖母も、ずっと土曜も日曜もなく、朝から晩まで働いていました。一泊旅行に連れて行ってもらったこともありません。私も大学時代、ひたすら働きました。両親に迷惑をかけたくありませんでした、裕福でもありませんでしたから」
「進学当初、和歌山から大阪まで通学しましたが、時間と電車代がかかるので、4畳半一間トイレ共同で月1万1千円の部屋に下宿しました。午後4時から午後9時までスポーツ店でバイトして、次は隣のコンビニエンスストアで翌日午前2時ごろまで働きました。20歳代からずっと働きづめです。私の父は病気でも頑として休まない働き者で、私も妻から『お父さんそっくり』といわれたことがあります」

「決してウエルカムな社員ではなかった」と振り返る新入社員時代(右端が山口社長)
――なぜ実家を継がなかったのですか。
「理由は特にはありません。ただ、農業だけではやっていけない時代になるだろうと、漠然と兼業を考えていました。日本IBMに入社したのは大学の恩師から勧められたのがきっかけです」
「私が大学を卒業した1980年代半ば、日本IBMは理系大学生にとって人気の就職先でした。『どうせダメだろう』と思っていたのですが、恩師から『何言ってるんや、一回受けてみろ』と。結果として、入れてもらえました」
「とはいえ、仕事は厳しそうだし、優秀な人もいっぱいいるだろうしと、思い悩みました。大学の友人から『3年くらいしかもたないんじゃないの。地元に帰った方がええぞ』といわれて、『せやろなあ』と答えたのを覚えています」