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リーグ内にはサッカー日本代表になり、Jリーグでも活躍した永島昭浩くん(当時は御影工業高校)や元ヴィッセル神戸監督の和田昌裕くん(御影高校)ら全国トップクラスの選手がいた。徹底的に戦力分析したが、両校に勝っているのは灘のグランドだけということ分かった。校内には2つグランドがあり、1つはサッカー部のみで使用することも可能だった。そこで他校をどんどん練習試合に招いて、実戦経験を積み上げたのです。最初は10対0位で負けますが、何度も繰り返して戦略・戦術を磨くと、最後は御影高校にも勝利した。優勝は人生最高の体験になりました。

その後、通産省時代にJリーグ創設に携わり、現在も日本サッカー協会理事ですが、当時のサッカー仲間とは仲がいいですね。僕の同級生が相手チームメンバーと飲むと、「まさか灘に負けるとは」と今も悔しがっているそうです。

灘は教師も個性的で授業もユニークだった。

「東大にいきゃいいってもんじゃないだろと論争が起こり、東大受験者自体が減った」と振り返る

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中学2年生の数学は幾何しかやらない。1年中そればかりです。でも後で考えると良かった。「思考力」が徹底的に鍛えられました。国語の授業で『銀の匙』という小説ばかりを取り上げる橋本武先生は有名ですが、そんな調子で自分の好きな授業を貫く教師が少なくなかった。灘は「学年団」といって各教師が学年ごとに6年間持ち上がり制で授業を担当しますが、僕の学年の国語は森本先生という超ベテラン教師で故事成語ばかり教えていました。とにかく「言葉」にうるさい先生で、正確な言葉、的確な表現を使わないとめちゃくちゃ怒られるので、発言にはすごく神経を使った。おかげで官僚になったときも答弁で苦労することはありませんでした。

当時の超ベテランの先生たちは東京高等師範学校(現在の筑波大学の前身)出身者が多かった。柔道の父と呼ばれ、同校校長だった嘉納治五郎が灘の創立に参加していますが、その関係だと思います。その後は現在の和田孫博・灘校長ら京大出身者の先生たちが新任教師として次々入ってきました。僕は和田校長の最初の教え子です。当時の灘には東大出身の教師は1人か2人しかいなかったのではないかと思います。

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