「サラリーマン」宰相の晩節 史記で知る長期政権の罠
司馬遷「史記」研究家・書家 吉岡和夫さん
ここまでの春申君は見事というほかありません。殺されるかもしれないのを承知で、秦王に上書したり、人質の太子を逃がしたり、保身とは無縁の行為に、知恵と度胸を発揮しました。王族ではない人間が出世を果たすには、このくらい大きなリスクを取らなければならないということでしょうか。
宰相の座に四半世紀
春申君は軍功をあげながら、内政外交の両面で楚を立て直します。しかし就任から22年、指揮官として率いた反秦連合軍が秦の逆襲にあって敗走すると、考烈王にまで責められます。逆風が吹き始めました。
李園の妹は春申君に持ちかけます。「私が身ごもったのはまだ誰も知らないことです。あなたが私を王に差し出したなら、王はきっと私をかわいがるでしょう。もし私が男児を生めば、あなたの子が王になるのです。つまり楚の国すべてを手に入れることになりましょう」。春申君は李園の妹をいったん別邸に移し、関係がなかったようにみせかけて王に推薦します。王は彼女を気に入り、まもなく待望の太子が生まれました。
ここで李園は新たな手を打ちます。春申君が次の王の父として名乗り出てくることのないよう暗殺を画策したのです。司馬遷はこのくだりに次のように書き入れます。
而(しこう)して国人、頗(すこぶ)る之(これ)を知る者有り。
それでも世間の人々の中には、その経緯をよく知っている者がいた――。「誰も知らないと思ったら違うヨ」。そんなニュアンスが伝わってくる、私の好きな一文です。
春申君は朱英(しゅえい)という剣の達人の面倒もみていました。春申君が宰相となって25年、考烈王が病の床についたとき、秘密の多くに気づいていた朱英は春申君に提案します。
世に毋望(むばう)の福(さいはひ)あり、また毋望の禍(わざはひ)あり。今、君、毋望の世に処(を)りて毋望の主に事(つか)ふ。安(いづく)んぞ以(もっ)て毋望の人無(な)かる可けんや。
世には思いがけない幸運があり、思いがけない災いがあります。今あなたは、どうなるかわからぬ世にあって、どうなるかわからぬ王に仕えています。思いがけない事態に対処できる助っ人が必要ではありませんか――。朱英は李園の企てを伝え、自分を宮中の役職に就かせるよう求めます。孝烈王の死から間を置かずに李園を殺すためです。「毋望の人」とは朱英自身のことでした。
春申君はまともに受け止めません。「放っておけ。李園はヤワな人間だ。よくしてやった私に、そんなことできはしないよ」。これが命取りになります。孝烈王が亡くなるとすぐに宮殿に入った李園は、門に刺客を隠します。刺客は入ってきた春申君の首をはね、門外に投げ捨てます。春申君の一族も滅ぼされました。
司馬遷は春申君列伝の末尾に、実際に訪ねた春申君の居館跡が大規模なものであったことを記します。そして秦での決死の活躍ぶりをたたえつつも、最後に李園に謀られたことについては「旄(まう)せるかな(もうろくしたのかな)」と書きました。朱英の言葉を聞かなかった失敗は「当(まさ)に断ずべくして断ぜざれば、反(かへ)って其(そ)の乱を受く(決断すべきときに決断できない人は、厳しい報いを受けることになる)」という言い伝えの通りだと述べます。決断に決断を重ねた前半生とは別人にすら思えます。
なぜ春申君はもうろくしたのでしょうか。王族ではなく、いわば「持たざるもの」であった人物が、20年余りも権力の座にあったことが大きな理由と考えます。長期政権には罠(わな)があるように思うのです。
権力を握ると、最初はやりたかったことをどんどん実現していきますが、長く続ければそれも減り、飽きが来ます。それでも、いったん手に入れた権力を捨てられないのは「ただの人」に戻るのが怖いのです。新たな権力者が自分を大事にする保証はありません。結果として、権力の座を守りつつ、色を好み遊興にふけることになります。こうした例は春申君に限らず、古今東西少なくありません。
春申君、孟嘗君(もうしょうくん)、信陵君(しんりょうくん)、そして詳しくふれませんでしたが、司馬遷が「濁世には得がたい佳公子」と評した平原君(へいげんくん)。この4人の大親分に共通するのは、実に多様な食客を受け入れ、自分の支えとした点です。人間に役に立たない者などいないのだ、そんな信念すら感じます。つけ加えるなら、金さえあれば何でもできるという発想もありませんでした。
そのせいもあって、人を見る目が甘くなるところは確かにあります。そんな欠けた部分があることも、彼らのリーダーとしての器が実に大きなものであったことの証しに思えるのです。
