「完璧」元祖のミッション遂行力 史記が絶賛した気合
司馬遷「史記」研究家・書家 吉岡和夫さん
この藺相如をはじめ、史記の中で外交の危機を救った人物をみると、何事も最後は「気合」が全てを決するように思えてきます。もちろん基本となる知識や技を身につけたうえでのことであり、これに数十年を要することもあるのですが、やはりここ一番というときには、気合がものを言うのではないでしょうか。
外交に限りません。書の世界でも、相応の訓練を積んだなら、うまく書こうとしたり、飾ろうとしたりする必要はないと思うのです。最後は堂々としていればいい、私はそんなふうに考えています。
藺相如の気合のすごさを示すエピソードがもうひとつあります。璧と15城の交換は実現せずに終わるのですが、秦と趙との駆け引きは続いており、あるとき秦王が、趙王と親交を深めるために出先でトップ会談したいと言ってきたのです。
会談後の酒宴で、秦王は趙王に言いました。「趙王は音楽がお好きだと聞いています。得意の瑟(しつ、弦楽器)をお聞かせください」。趙王がやむを得ず瑟を弾くと、秦の史官が「某年某月、秦王が趙王と会い、瑟を弾かせた」と記録します。秦王の優位を明確にするためです。
そのとき相如が進み出ます。「趙王は秦王が秦の音楽がお上手だと聞いています」と述べ、秦の打楽器を演奏してもらいたいと求めました。秦王は相如の申し出を断ります。相手に要求するだけで、自分が答礼を求められたときに断るのは礼に反します。相如の顔に気合がみなぎります。
五歩の内、相如請ふ、頸血(けいけつ)を以(もっ)て大王に濺(そそ)ぐを得ん。
大王と私とはわずか五歩しか離れていないのです。秦王に私の首から血を浴びせかけてもいいのですよ――。「刺し違えるのは何でもないことだ」というドスのきいたひと言です。
秦王の取り巻きが相如に斬りかかろうとしますが「相如、目を張つて之(これ)を叱(しっ)す。左右皆靡(なび)く」。相如の気合に押されてだれも動けなくなってしまったというのです。秦王が不機嫌そうに一度だけ楽器を打つと、相如は趙の史官を呼び、趙王が秦王に楽器をたたかせたことを記録させました。その後も相如は、秦側の要求に同等の要求で応じ、スキをみせません。秦の思惑と異なり、両国が対等であることを示して会談は終わりました。
藺相如の気合は、国を救うほどの迫力ですが、蛮勇や無鉄砲というのとは異なり、深慮のうえのものです。しかも自分を売り込んだり、保身を考えたりすることがない「無私」から発していることが、人の心を動かしたのではないでしょうか。
廉頗将軍との「刎頸の交わり」
彼は趙王によって上卿(じょうけい)という高位の大臣に引き上げられ、格下になった廉頗将軍がこれを妬みます。口先の貢献と自分の戦功とは違うというのです。そして「相如に会ったら必ず辱めてやる」と息巻くのですが、これを聞いた相如は廉頗と会うのを徹底的に避けるようにしました。
相如の家臣たちは「逃げ隠れするのは恥ずべきだ」と反発します。これに相如は「秦王を叱咤(しった)し、その群臣を辱めた自分が、どうして廉将軍を恐れようか」と語り、真意を打ち明けます。「秦が趙に侵攻してこないのは(廉頗と藺相如の)両人がそろっているからだ。今ふたりが本気で争ったら、どちらかが破滅する。私は国家を優先し、私情を後回しにしているのだ」
これを伝え聞いた廉頗は、相如を訪ねて深くわび「刎頸(ふんけい)の交わり」を結びました。刎頸の交わりとは、その人のためなら首を斬られても悔いないまでの親しい間がらを意味します。潔く自らの非を認め深く頭を下げた廉頗も、ただ者ではないと思います。
司馬遷は「廉頗藺相如列伝」の終わりに「人は死を覚悟すれば勇気がわくものだ。(だからこそ)死ぬことより、いつどのように死ぬべきか判断することの方が難しい」と書き、それができた相如は知勇を兼ね備えていたと絶賛しました。藺相如を思い出すと、入れた気合に、さらに気合が加わるような気がします。
