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無用な争いをするくらいなら立ち去る荊軻の性分も史記は記しており、かなり現実的で慎重な人物だったことがわかります。いったいだれを待っていたのか記述はありませんが、丹がしびれを切らした時点でも、荊軻は時期尚早と感じていたことは確かでしょう。

私は荊軻の上司というべき丹の不明を思わずにいられません。そもそも丹の個人的な恨みが暗殺計画の動機であることに加え、できると見込んで重大な仕事を依頼した人物に、100%の信頼を示すことがありませんでした。田光に続き、荊軻に対しても同じ過ちを犯したと思います。

 自害した将軍の首と、秦に贈る領土の地図を携えた荊軻らが秦王の前に出ると、勇士のはずの秦舞陽はぶるぶる震えだします。荊軻は笑って「田舎者で天子を見たことがないのです」と釈明して王に近づき、地図を手渡しました。王が地図を最後まで開くと、しのばせてあった短刀が現れます。荊軻は右手でそれを取り上げ、左手で王の袖をつかみました。
イラスト・青柳ちか

イラスト・青柳ちか

 驚いた王が身を引くと袖がちぎれ、短刀は王をそれました。長剣を抜くのに手間取る王は逃げ、荊軻は追い回します。王の前で武器の携行が許されていなかった群臣は大混乱し、侍医の男は薬の入った袋を荊軻に投げつけました。
 その一瞬のスキをみて秦王は剣を抜き、荊軻の左足を斬りつけます。倒れた荊軻は短刀を投げますが、これも柱に当たっただけでした。くり返し斬られた荊軻は柱にもたれ、笑いました。
  事の成らざりし所以(ゆえん)は、生きながら之(これ)を劫(おびやか)し、必ず約契(やくけい)を得て以(もっ)て太子に報ぜんと欲したるを以て也(なり)
 失敗の理由は、王を脅しながら生かし、燕に譲歩する約束を取り付け、それを太子に報告しようとしたためだ――。動けなくなった荊軻は、秦王の周囲にいた者たちの手によって殺されます。

日本でもこの一幕は能「咸陽宮」の題材になっており、学校の教科書や映画などを通じても知られています。私は司馬遷の記述を事実と信じています。荊軻が秦王の肩や腕ではなく、袖をつかんでいたことは、荊軻の最後のひと言が真実であったことの証しのようにも思えます。

「完璧」な君臣との違い

この事件の半世紀前には、当時の秦王を前にひるまず国を救った趙の藺相如(りんしょうじょ)の故事がありました(「『完璧』元祖のミッション遂行力 史記が絶賛した気合」参照)。もしかしたら荊軻は、藺相如のように国を守り、自らも無事に帰る「完璧」にならおうとしたのではないでしょうか。

しかし藺相如と荊軻の残した結果は正反対でした。命を狙った秦王は生き延び、刺客は殺され、燕は領土を取り返すどころか秦の執拗な攻略を受けて滅ぼされます。藺相如にはすべてを彼の判断に委ね、信頼した趙王という存在がいましたが、荊軻はそうではなかったというほかありません。

史記「刺客列伝」は、荊軻と前回紹介した予譲を含め5人の刺客を取り上げています。司馬遷はその末尾で「成功した者も失敗した者もいるが、そのめざすところが明確で、自分の志に正直だった。名声が後世に及ぶのも道理だろう」とたたえています。

吉岡和夫
1939年(昭和14年)千葉県生まれ。横浜国大経済卒。東海銀行(現在の三菱UFJ銀行)に30年間勤務。書家の古谷蒼韻氏に師事。雅号は「泰山」。中国「司馬遷史記博物館」(2016年開館)の顧問も務める。著書に『史記を書く』(1996年)、『毒舌と名言の人間学』(2005年)など。名古屋市在住。
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