「空飛ぶバイク」開発の経営者 筑駒で出合う自由奔放
片野大輔・A.L.I.テクノロジーズ社長(上)
筑駒生は、自分の興味のあること以外には何の関心も示さないという個人主義者ばかり。教えてもらわなくても、自分で学習できてしまう生徒が大半なので、よほど面白い授業をやらないと、食いついてこないのです。普通の学校なら、空気を読んで、授業を聴いているふりぐらいするでしょうが、そんな忖度(そんたく)は一切しません。

「筑駒は個人主義のオタクの生徒ばかり。リーダーシップを身につけるとなると疑問符がつく」と振り返る
実は私もそうでした。数学や物理など自分の好きな科目の授業には出席していましたが、古文や歴史などの授業はよくサボっていました。近くの渋谷の繁華街のゲームセンターに繰り出して、格闘技ゲームなどに興じていました。
もちろん先生たちから叱られますが、それ以上の罰則はありません。基本、筑駒には校則らしいルールはなかったのです。「神童の楽園」とよく言われますが、生徒を抑えつけて従わせようとする先生もいなかったと思います。
ほぼ全教員は大学院まで修了し、個性的な研究者タイプの先生が多かったですね。漢文の塩谷健先生は印象的でした。中学1年生の時から、レ点などがついていなくて、読み方の難しい、いわゆる漢文の原文に当たる「白文」を読ませるような先生でした。しかも姿格好が面白い。いつも羽織はかまにゲタに唐傘、言葉遣いも古風でした。
中1の生物の最初の授業はDNAについて、一般の高校なら高1で習う内容だと思います。いずれの先生も自身や生徒の関心、当時の流行、話題に合わせ、中学のカリキュラムと関係なく、かなり内容の深い授業を展開していました。
数学の授業は「解法大会」というと少し大げさですが、いつも熱気を帯びていました。ある生徒が黒板の前で解き方を披露すると、他の生徒も「もっとこんないい解き方がある」と次々独自の解法を繰り広げるのは日常茶飯事でした。
東京・杉並で生まれ育ち、両親の意向で、国立小学校の「お受験」もした。
小学校受験は残念ながら抽選落ち、進学できませんでした。勉強は好きだったので、小学校時代は早くから20人程度の少数精鋭の進学塾に通っていました。思いのほか、成績が伸びたので筑駒を受験しました。
入学して驚いたのは、すでに大半の生徒が顔見知りだったことです。中学の定員は1学年120人ですが、小学校は別々でも、大手の塾チェーンで「塾友」になっていました。模試の成績トップクラスのスーパースター軍団で、僕も名前だけは知っている生徒がたくさんいました。