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しかしその過程にはひとつだけ計算外のことがありました。呂不韋がそばに置いていた美しい舞姫を、子楚が求めてきたことです。さすがの呂不韋も腹を立てますが、出世計画が台なしになるのを恐れて子楚の願い通りにします。舞姫はすでに呂不韋の子を身ごもっていましたが、子楚は知るよしもなく、生まれてきた子を自分の子とし、舞姫を正室としました。

この子が将来の始皇帝、政です。子楚が即位3年で亡くなると、まだ13歳の政が王位に就きます。呂不韋は相国(しょうこく)という最高実力者となり、歴史上の名臣、管仲(かんちゅう、「出世の裏に人あり 元銀行マンがひもとく史記の人間学」参照)にならって「仲父(ちゅうほ)」と呼ばれるようになりました。呂不韋、得意の絶頂にあったと思われます。

 呂不韋は再び政の母と関係するようになり、自分が老いると、あろうことか別の男を宦官(かんがん=去勢した宮仕えの男性)と偽って彼女のそばに置きます。政の母は、その男との間にも子をもうけました。
 偽りはやがて密告者によって、政の耳に入ります。政は宦官を装った男の一族を滅ぼし、呂不韋については、相国の地位を奪い、都の咸陽から離れた地に追いやります。呂不韋を殺さなかったのは、先王の時代からの功を重くみただけでなく、呂不韋が力を失うと不利になる勢力による反抗を避ける思惑もありました。
 しかし決して許したわけではありませんから、政は呂不韋にこんな書簡を送ります。
  君、秦に何の功あつて秦、君を河南に封じ、十万戸を食(は)ましむる。君、秦に何の親(しん)あつて號(がう)して仲父と称する。
 あなたは何の功績によって秦から河南の地を与えられ、多くの領民を支配しているのですか。あなたは秦の誰に親しまれて仲父と名乗っているのですか――。罪は許すが、何もなかったと思え、そんな厳しい言葉です。そしてさらに辺境の蜀(しょく)の地に去ることを呂不韋に命じました。政が全てを知っており、自分の権勢が地に落ちたことを覚(さと)った呂不韋は、毒の入った酒を飲んで死にます。

この記事の冒頭で、司馬遷が呂不韋を「聞」と評したことを紹介しました。「論語」には司馬遷が参照したであろう次の問答が残されています。

聞の人、達の人

「達人とはどういう人か」と問う弟子に、孔子が「おまえはどう思う」と尋ねると、「国に仕えても、家にいても、評判のいい人物です」との答えが返ってきました。孔子は首を横に振ります。

是(こ)れ聞なり、達に非(あら)ざるなり。

それは評判の人であるというだけで、達人とは違うよ――。そして「達人は真っ正直で正義を好み、言葉や表情から人の気持ちを察し、謙虚な人物だ。評判だけの人物は、思いやりがあるような顔をつくって、やることは逆。しかもそのことに疑いを持たない」と語りました。

相手のためとみせて自分の利益を追求し、しかもそれを当然のように実行して尊称まで贈られた呂不韋。出世を果たしたとしても、「聞」と「達」の差は大きいようです。

吉岡和夫
1939年(昭和14年)千葉県生まれ。横浜国大経済卒。東海銀行(現在の三菱UFJ銀行)に30年間勤務。書家の古谷蒼韻氏に師事。雅号は「泰山」。中国「司馬遷史記博物館」(2016年開館)の顧問も務める。著書に『史記を書く』(1996年)、『毒舌と名言の人間学』(2005年)など。名古屋市在住。
【古代「史記」 偉人の出世学  記事一覧はこちら】

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