成績はガタガタ、ITには覚醒 S高校長の広大付属時代
吉村総一郎・S高等学校校長(上)
広大付属は、1905年に広島高等師範学校(現在の広島大学)の付属中学として開校。永野重雄元日本商工会議所会頭ら多くの経済人を輩出した。中高一貫校で高校の定員は約200人。21年は東京大学に9人、京都大学に8人、国公立大学医学部医学科に34人がそれぞれ合格した。
地元では広島学院高校や修道高校と並ぶ進学校として知られています。ミッション系で真面目な生徒が集まる広島学院と違い、広大付属は校則が緩く、生徒の自主性を重んじた自由な校風。マスゲームの制作のほか、部活のバドミントンにそれぞれ時間を取られ、通学に片道2時間かかっていたので、自宅での睡眠時間は3~4時間でした。授業中はほとんど寝ていたと思いますが、先生方から厳しく注意されることはありませんでした。
体育祭でITに覚醒しましたが、成績はガタガタ。高3の夏から本格的に受験勉強を開始しようとしましたが、数学は高1で学習する「数1A/2B」も終えていない状況。ただ、地方を離れてとにかく東京に出たかった。広大付属から東工大に進学する生徒は毎年1~2人と少なかったのですが、広大付属出身で、憧れのいとこが東工大に進学していたので自分もと、この大学を志望したのです。このいとこは現在、経済産業省で官僚を務めています。最後の半年は猛勉強してなんとか現役合格しました。
進学したのは生命理工学系の東工大7類だった。
当時はプログラミングにはまっていたのですが、情報工学系は自主学習が可能です。せっかく国立の理系トップ大学に進むなら、高価な実験装置を存分に使える分野を学ぼうと考えました。当時はバイオブームも到来していたので、生命工学を専攻しました。結局、ここでもソフト技術を駆使し、研究を進めることになります。
私の人生の目標は「ソフトウェアで人や社会を幸福にすること」です。プログラマーと言えば、特殊な仕事だと思うかもしれません。しかし、現在の情報化社会のインフラはすべてプログラミングによって成り立っています。実際、広大付属のマスゲームのような学校の行事もプログラムに支えられているわけです。この後、東工大7類に進学しながら、結果的にITのエンジニアになりますが、就職先の企業が経営破綻するなど、S高校長になるまでは紆余(うよ)曲折の連続でした。このお話は(下)でしようと思います。
(代慶達也)