隈研吾建築30年の進化 図解で読む「足す楽しさ」とは
『隈研吾建築図鑑』より
いったん受け入れて「別の闘い」を始める

1991年に完成したM2(エムツー、現在・東京メモリードホール)。2003年から葬祭場として使われている(絵・文:宮沢洋)
宮沢 では、本題となる「転機の建築」を話しましょう。竣工年の古い「M2」です。M2は、ぱっと見には「今の隈さんとは全く別人」のようです。真ん中のイオニア式の柱につい目を奪われるからですが、立面のパラパラとした割り方など、空間のつくり方は今の隈さんにかなり通じるのではないかと思います。
根底にあるものは変わらないけれど、あのシンボル性の強い柱が強く批判されたことで、隈さんは別の表現方法を模索し始めた。M2はそういう意味での大きな転機であったと考えます。そんな見立ては、いかがですか。
隈 そうだね。僕も、今の自分の建築と似ているっていうのは分かる。何が似ているかっていうのをまだうまく言語化できないけれど、まず、作家としてのスタイルとして似ているところがある。
M2の場合は、クライアントから「ヨーロッパの格式のある伝統的なデザインでやってほしい」という与件があった。クライアントのメンバーは、自動車レースでヨーロッパ中を回っている、感性が研ぎ澄まされた人たちだったんです。彼らが、日本の最近の建築は薄っぺらいと。
僕も共感して、それを受け入れて設計したわけなんだけれど、その当時のポストモダン建築のやり方、例えばマイケル・グレイヴス(米国の建築家、1934~2015年)の様式の受け入れ方はダサい、と思っていた。そのアメリカ風のフェイクっぽさをなくしたい。それを徹底的に断片化することでリアリティーをつくり出したいと思った。僕の作家としてのスタンスはリアリティー捜しにあると思う。
地方の仕事なんかをやると、地方の環境や伝統に合わせたいと思うわけですが、その「given(与えられたもの)」に対して、「フェイクにはしたくない」「リアリティーを持たせたい」、というスタンスは当時も今も変わっていない。
宮沢 ヨーロッパの伝統的なデザインで、というのはクライアント側の要望だったんですね。
隈 そうです。もしも同じ条件を言われたら、「それは違うんじゃないですか」と、そこで闘う人もいると思う。たぶん今までのモダニズムの建築家だったら、安藤(忠雄)さん(建築家、1941年~)にしても、槇(文彦)さん(建築家、1928年~)にしても、そこで闘うと思う。僕はそこで闘うんじゃなくて、受け入れたうえで、リアリティーを獲得するための「別の闘い」を始める。