変わりたい組織と、成長したいビジネスパーソンをガイドする

会員登録をすると、編集者が厳選した記事やセミナー案内などをメルマガでお届けしますNIKKEIリスキリング会員登録最新情報をチェック

成績はわりとトップの方でした。けれど、時間はぜんぜんかけていません。自宅から小学校までは両親が車で送り迎えしてくれていたんですけれど、その間の15分間くらいで宿題をパーッと終わらせていました。

それでも先生が「すごいね、ちゃんとできているね」って褒めるものだから、両親がある時、抗議したんです。

「うちの子を褒めるのは、やめてください! 先生がすぐそうやって褒めるから、それ以上、やろうとしなくなるんです」

その通りだな、と思いましたね。

家でまったく勉強しないのになんでもできちゃう僕を見て、両親はもっとやれるはずだと思ったんでしょう。中学3年生の時に校長先生と相談して、「高校の内容をやらせてみようか」となりました。

制度があったわけじゃないんです。飛び級したのは当時、学校でも僕1人だけ。

そのまま同級生より1年早く、17歳でミシガン州立大学に進学しました。高校に通いながら大学の単位を取れるシステムはわりと普及していましたから、僕のような人間は珍しくなかった。アメリカの場合、高校卒業後、数年間働いて学費をためてから大学に入るケースも、珍しくないんです。学費がバカ高いからね。

僕は両親に言われて、年間10万円だけ学費を負担しました。いくらかでも自分で払えば、その分、真面目に勉強するだろうという考え方だったと思います。

大学でコンピューターサイエンスを学ぶ

専攻したのはコンピューターサイエンス。アメリカでは当時、「ドットコムバブル」に乗り、一夜にして億万長者になる人たちが出てきていました。当時はまだビル・ゲイツくらいしか有名じゃなかったけれど、「社長になりたい」「お金が欲しい」というのは、高校生ぐらいの時から、漠然と思っていました。

「類は友を呼ぶ」じゃないけれど、周りも似たような友だちは多かったね。その分、自分と違う考え方には、あまり接してこなかったかもしれない。

IT系に進んだのは、父の影響もあったでしょう。

父はもともとエンジニアです。車の窓を自動で上げ下げする「パワーウインドー」のプログラミングなどを手がけていました。だけど、僕が子どもの頃にリストラされて、たった一人で起業した。自宅の地下にいろんな機械やら、パソコンやら並べて、電気工学関係のコンサルティングをしていました。

新着記事

Follow Us
日経転職版日経ビジネススクールOFFICE PASSexcedo日経TEST

会員登録をすると、編集者が厳選した記事やセミナー案内などをメルマガでお届けしますNIKKEIリスキリング会員登録最新情報をチェック