三菱自、相川ジュニアの慟哭 「親子鷹」は遠く
プリンスはリーダーにふさわしかったのか 編集長コラム

燃費試験に関する不正行為で謝罪する三菱自動車の相川哲郎社長=20日午後、国交省
「正直言って相川さんの責任は免れないでしょう。不正の事実を把握したのが最近だったとしても、もともとeKワゴンは相川さんが開発のリーダーだったしね」(自動車アナリスト)
今回データ改ざん不正発覚の対象となったのは、eKワゴンなど2車種と、同社が受託生産し日産自動車が販売する「デイズ」など2車種。2016年3月末までに計62万5000台を販売している。

三菱自動車の相川社長
もともと相川氏はエンジニア。一貫して新車開発を担ってきたが、最大のヒット作が2001年に売り出したeKワゴンだった。当時はまだ40歳代だったが、この頃から「将来の社長候補、そしてプリンス」と呼ばれた。
なぜプリンスか。父親が三菱自の源流、三菱重工業の社長、会長を務めた賢太郎氏だったからだ。しかも「ミスターコストダウン」といわれた賢太郎氏は実力派会長として知られ、引退後も隠然たる力を発揮。「息子を自工の社長にしたがっている」という噂が流れていた。
ただ、東京大学工学部を卒業し、技術者として着実に実績を積み重ねてきた哲郎氏は「父親の威光を笠に着ることもなく、謙虚で頭のいい人」と社内の評判が高かった。一方で剛腕トップだった父親と比べて「やはり御曹司。おっとりタイプで、改革トップというイメージはあまりない」と語った三菱自元幹部もいる。
三菱自の過去30年は3つの時代に分かれる。1989年に就任した中村裕一社長のバブル時代に「パジェロ」がヒットするなど国内販売で3位に浮上した黄金期。「自工は重工を抜いた」と豪語したが、中村社長の退任後は不祥事が続き、95年から05年までの10年ほどの間に、実に6人が社長を交代した。
この間、2000年に独ダイムラークライスラー(当時)傘下となったが、04年に同社は経営から手を引く。短期間に2度もリコール隠し問題を起こし、「不祥事の三菱自」といわれるほどに企業統治に支障をきたしていたからだ。結局、三菱重工、三菱商事など「三菱御三家」が面倒を見るかたちとなり、商事出身で現会長兼最高経営責任者(CEO)の益子修氏が9年間にわたって社長を務めて、再建の道筋をつけた。

三菱自の「eKワゴン」は、同社が受託生産し日産自動車が「デイズ」として販売している
「僕は重工出身だから」。三菱自がダイムラー傘下となり、リコール隠し問題で揺れていた時期、筆者は自動車業界の担当記者だった。その際に取材した三菱自役員陣は二言めにはこう言った。「彼らが入社した頃の三菱重工は国家的な企業。強烈なプライドを持ちつつ、そこから分離された自工マンにはコンプレックスもあった。一方で経営不振に陥れば、御三家に助けてもらえるという、甘え体質、無責任体質があった。要はドラ息子」(元三菱重工幹部)。不祥事が相次いだ時代の三菱自幹部の歪んだ体質はそこにあるとの指摘だった。
しかし、現在の経営陣には元重工マンの姿はない。相川社長は純粋にクルマが好きで三菱自に入社した生え抜きだ。ただ今も「無責任な甘えん坊体質」は変わっていないのかもしれない。
「コンプライアンスの徹底は難しい」と20日の会見で相川社長は嘆いたが、不正防止策については経営陣の1人としてこの15年間にわたって取り組んできたはずだ。相川氏は抜本的な意識改革が不可欠なこの会社のリーダーとしてふさわしかったのだろうか。
相川氏を社長に指名した当時の三菱自の会長は、三菱重工で社長や会長を歴任した西岡喬氏だった。この西岡氏を三菱重工社長に指名したのが相川賢太郎氏だ。だから哲郎氏が三菱自の社長に選ばれた、と言いたいわけではないが、因果を感じざるをえない。
スリーダイヤを背負うと期待された三菱の「親子鷹」。もはやこうした"称号"も遠いものとなってしまった。
(代慶達也)