社員は一国一城のあるじ 海外での現場経験、成長促す
マンダム 西村元延会長(下)
私のリーダー論
マンダム会長 西村元延氏
マンダムの海外ビジネスは整髪料「丹頂チック」から始まった。西村元延会長(70)の祖父、西村新八郎氏が1933年に社運をかけて開発した商品だ。最初はフィリピンで、次いでインドネシアで大ヒットした。71年にインドネシア工場が操業開始。1ドル=360円の時代でインドネシア通貨の方が強かったため、日本向けの生産拠点ではなく、現地で作って現地で売るグローバル化が決まった。
――インドネシア市場に深く浸透できた理由は。
「丹頂チックは、筒型の容器に半固形の整髪料が入っています。手を汚さずにジェームズ・ディーンのような大スターと同じリーゼントヘアーが簡単にできるとして、インドネシアをはじめとする海外で評判になりました」
「外務省のホームページはインドネシアを、約1万3500もの島々からなる世界最大の島しょ国家と紹介しています。マンダムの力だけではとても全ての島をカバーできません。華僑の方とパートナーシップを組み、きめ細かい流通網を築きました。よい相手に恵まれました」
「私自身はインドネシアの主だった島を全て訪問し、少数民族の村にも足を運びました。原則として、出された食事は何でも食べます。水生昆虫のゲンゴロウもいただきました。お代わりはしませんでしたが」
――ライバルはいなかったのですか。
「欧州系のメーカーが先行していました。私たちは誰でも手が届く価格帯に設定するために、日本のような大きな容器ではなく、『サチェット』と呼ぶ小袋入りの製品を投入しました。冠婚葬祭や大切なデートの前に買ってもらう作戦でした。マンダム製品で埋め尽くされた販売店によるディスプレーのコンテストを開催すると、お店同士が展示方法や売り方を工夫するようになりました」
――ビジネスはいつごろ軌道に乗りましたか。
「1999年ごろ、インドネシアのイリアンジャヤ州(当時)へ小さなプロペラ機で飛びました。暴動があって空港のターミナルビルは壊されていました。それでもスーパーの棚にマンダム製品は並んでいました」
「97~98年にアジア金融危機がありましたが、インドネシアでのビジネスは99年にリカバリーができていました。私たちがヒト、モノ、カネをつぎ込んできたインドネシア市場は、独自の進化を遂げていたのです」