文化庁長官・都倉俊一氏 相手を知り、世界に挑む
文化庁長官・作曲家 都倉俊一氏(上)
私のリーダー論合議や妥協はヒット生まない
――これまで数多くの人気歌手のデビューを手がけてきましたが、曲作りでもリーダーシップは必要でしたか。
「もちろんです。僕の経験からいえば、合議や妥協から新しいものは決して生まれません。例えば76年にオーディション番組『スター誕生!』でデビューが決まった女性デュオのピンク・レディーの場合、デビュー曲の『ペッパー警部』は当初アルバムのB面だったんですよ。A面候補は『乾杯お嬢さん』という無難な曲。渋るレコード会社を作詞家の阿久悠さんとタッグを組んで『A面とB面を差し替えないと楽曲をすべて引き揚げる』と力業で押し通した」
「レコード会社としてはかなりの冒険だったと思います。でも、あそこで妥協していたら、ヒットしたかどうかは分からない。そのあたりは理屈ではなく感性なんです。阿久さんとはあうんの呼吸で感性が通じ合っていた。『最近、宇宙が来てるよね……』という軽い会話からヒット曲『UFO』も生まれました」

作詞家の阿久悠さんら多くの才能たちと感性を競った(1970年代末、左から久世光彦、阿久、平尾昌晃、都倉各氏)
――日本の風土である「出る杭(くい)は打たれる」ようなことはなかったですか。
「僕は若くして作曲家になったし、随分ととがっていましたから『あいつは生意気だ』とよく言われましたよ。でも『どうにもとまらない』『ひと夏の経験』のヒットなど実績があったので何とか説得できた。自分に自信がなければレコード会社の意向を覆すことなんてできません。でもそれには必ず覚悟が伴います。ヒットが出なければ自分で責任を取らざるを得ません」
「『出る杭を打たない』という風土を作ることも大切ですね。11歳上の阿久さんはそんな僕を毛嫌いせず、『面白いヤツだ』と興味を示してくれた。才能を見いだし、受け入れるのもプロデューサーの役割。自信過剰なくらいでちょうどいいと思う。同調圧力や忖度(そんたく)など空気を読むことに慣れた日本の土壌を変えないと、様々な才能が埋もれてしまいます」