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主に1~3年生が使う成蹊小のトンネル山グラウンドで体を動かす児童たち

主に1~3年生が使う成蹊小のトンネル山グラウンドで体を動かす児童たち

成蹊学園の歴史をたどると、「大正自由教育の旗手」と呼ばれた中村春二が1906年(明治39年)に始めた学生塾が原点にある。当時の画一教育に疑問を呈し、師弟の心が直接ふれあう人格教育、人間教育を目指し、親友の岩崎小弥太(後の三菱総帥)と今村繁三(後の今村銀行頭取)の協力を得て開塾。その翌年に「成蹊園」と命名した。設立の経緯から三菱グループと成蹊学園とは今なお縁が深い。

各教室に置いてある凝念用の鐘。授業の始まりや終わりに使う

各教室に置いてある凝念用の鐘。授業の始まりや終わりに使う

成蹊とは「桃李不言下自成蹊 (桃李ものいはざれども 下おのづから蹊〈こみち〉を成す)」にちなむ。中国の歴史家、司馬遷が李廣という人物をたたえた一節で、徳のある人のもとには、その人の徳を慕って多くの人が集まってくる、といった意味である。成蹊小は創立者の中村の開塾から間もなくの1915年に開校し、もう100年以上の歴史を持つ。

成蹊小開校当初から続けられているのが「凝念」だ。中村が考案した一種の精神集中法で、手を重ね、左右の親指を合わせて桃の実を形作る。その後、鐘の音を鳴らし、音の余韻が消えるまでのおよそ1分弱、黙想するもので、授業や給食、各種学校行事の開始時などに行っている。凝念を通じて、自分の心を落ち着かせ、授業に集中する気構えなどを醸成する。成蹊中・高時代に自らも生徒の立場で凝念を実践してきた跡部校長はいう。「凝念で自分の心と向き合うことで、自らを律し、何事にも負けないぞというパワーを得てきた」

成蹊小は国際理解教育にいち早く取り組んできた。1964年の東京五輪開催時には、帰国子女を受け入れるための「国際特別学級」(現在の国際学級)を設置。跡部校長もその成蹊の国際性や多様性の恩恵にあずかってきた。実は跡部校長は中学時代、1年だぶっている。幼稚園から高校まで併設する学校に幼稚園から入ったが、小学校卒業後はいったん公立中に進んだ。併設中学に行かなかったのは「堅苦しい校風になじめなかったから」という。

跡部校長が中1の時、当時ブームだったスペイン語をかじった時期がある。そこで出会った年上の女性から「もし自分が行きたい学校があるのなら、浪人という手がある」と教えられた。「もう一度、中1からチャレンジするため浪人したい」。両親にそう直談判し、翌年の中学受験に挑むと決意し、公立中に通いながら家庭教師のもとで中1の秋から受験勉強を始めた。

自宅から通える範囲の学校の一つに成蹊中があった。自分なりに調べると、中学には成蹊小の国際特別学級出身の帰国子女もいると知った。当時の帰国子女は今と違い学年を下げて通うのが普通だった。だから「自分と同じ年齢の子が他にもいる」。そう思うと、がぜんやる気が出た。

実際に入学してみると、成蹊中のクラスメートには実際、自分と同じ年齢やさらに一つ上の仲間がちらほらいた。国際特別学級出身者は様々な国で海外生活を経験し、国際性がそこはかとなく漂う。そんな多様性に満ちた成蹊の環境に「周囲との年の差など気にならなくっていた」と跡部校長は振り返る。

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