東大から外資証券へて起業 仕事もモデルも自分基準で
GENDA社長 申真衣氏(下)
リーダーの母校経済学部に進み、日本の金融工学の第一人者である小林孝雄教授(当時・2011年退官)のゼミに入った。

「東大に入って最初に感じたのは孤独感」と振り返る。だが、部活を通じて仲良しの女子の友だちができ、乗り切った(大学時代の友人とのスナップ。右が申氏)
大学1、2年は特に目的もなくダラダラとした生活でしたが、3年生で小林先生のゼミに入ってからは夢中で勉強しました。ゼミの面接の時に先生から、2年生の必修で取った先生の授業で私の成績が1番だったと言われて、びっくりすると同時にうれしかったんです。もともと理数系の勉強は好きでしたが、高校時代いつもトップだったわけではなく、東大に入ってからも周りに優秀な学生はたくさんいるので、あまり自信を持てずにいました。でもその時、自分が好きで、なおかつ人より秀でている分野があるのだと知って、がぜん頑張ろうと思ったのです。
金融工学を勉強している学生はほとんど投資銀行を受けていたので、私自身、ゴールドマン・サックス証券を受けたのは自然な流れでした。1対1の面接を50回くらい受けたのですが、会う人会う人みな若くてバイタリティーにあふれていたので、私もこういう人たちと一緒に働きたいと思い、迷うことなく入社しました。
でも順風満帆というわけには行きませんでした。入社から1年半後の08年にはリーマン・ショックが起き、人員削減が行われましたし、私自身も異動しました。それまではデリバティブの営業をやっていたのですが、よりシンプルな商品の営業に変わり、すごく苦戦しました。デリバティブは最初からニーズがあるお客様を相手に売ることが多いのですが、シンプルな商品の場合、用事がなくても電話をし、天気の話を含めて雑談をしながら信頼関係を築くことが先です。会話の中からお客様がいま何を考えているのかを聞き出し、ニーズにあった取引を提案する仕事なのですが、私は用もないのに電話をするというのができませんでした。
周りの先輩たちは朝8時ごろから、お客様に電話をかけ続け、アポをとってどんどん出かけていきます。それを横目で見ながら、私はお客様と何の話をしたらいいのか、途方にくれるばかりで、なかなか受話器が上げられませんでした。しかも、どうにか話題を決めて電話して、「お時間をいただけませんか」と切り出しても断られてしまうので、出かけたくても出かけられないのです。仕方がないのでお客様の会社が入っているビルまで行って「今、下にいるので5分だけお会いできませんか」とお願いし、やっと会ってもらうような状況でした。
もちろん時間がたつにつれて電話はできるようになりましたが、自分はもう少し複雑な商品を売る方が価値を出せるのではないかという思いが募り、異動を願い出ました。異動といっても外資の場合、自分で社内のポストに応募して面接を受けるわけですが、結局、商品の組成をする金融商品開発部に移りました。その仕事は私には合っていました。金利・為替系デリバティブの商品開発や提案業務、グローバルな金融規制に関する助言業務なども手がけ、仕事の幅が広がっていきました。