慶応志木高の「好き勝手」 気鋭のVB投資家を育む
佐俣アンリ・ANRI代表パートナー(上)
リーダーの母校
少年時代は徹底したインドア派。本やマンガを読みあさっていた
でも楽しかったですよ。国立の学校は地域の教育のモデル校なので、当時は珍しかったカフェテリアや広いオープンスペース、床暖房など設備も充実していて、学校週5日制や総合的学習が取り入れられるのも他の学校より1年早かったんじゃないかな。小5の頃にはウィンドウズ95搭載のパソコンもいち早く導入されたので、休み時間に友だちとBASICというプログラミング言語でコーディングしたりしていました。その頃、周りはサッカーで盛り上がったりしていましたが、僕は運動が苦手で20分休みも絶対外では遊ばず、一度だけ校庭に出た時も散歩して帰ってきた、という超インドア派でした。おやじがカメラ好きで僕が小さい頃の写真もいっぱい撮っているのですが、ほぼ全ての写真で僕はマンガか本を読んでいます。
でも親友が運動が得意で、下校時になぜか必ず走って帰るので、僕もわけもわからず一緒に走っていたのと、小6の時、その子が重量挙げで全国1位になったと聞いて「僕もスポーツやりたい!」と思って、中学からは陸上部に入りました。そこで人と競争して勝つ喜びに目覚めたんです。その頃、急に体も大きくなって運動が得意になり、校内のマラソン大会でも上位に入るようになりました。ただし、学校全体としては全ての部活がまんべんなく弱かったですね。通学エリアが広いので下校時間が早いし、土日の練習もなかったし、みんな塾に通ってめちゃくちゃ勉強していましたから。
中学の行事では「美化デー」が忘れられません。毎学期、1日集中して生徒が校舎を磨き上げるといういかにも真面目な学校らしい行事ですが、家に帰って「今日は美化デーでさ」と話し始めたら、母から「それは私が中学で美化委員長をやっていた時に作ったのよ」と言われ、「大元はこの人だったのか」と仰天しました。ま、ワイワイやるのでそれなりに楽しいのですが。
勤勉な学校なので進学実績は良かったですね。県立浦和など地元のトップの公立校にたくさん受かりますし、確か当時は男子の半分くらい開成や筑波大付属駒場、早慶の付属に合格していたと思います。僕は第1志望が早稲田系列でしたが全部落ちてしまい、結局、慶応義塾志木高に進みました。
超真面目だった中学までとは打って変わって、慶応義塾志木高は自由だった。
校風があまりに正反対で衝撃でした。実は入学直後は塾通いをしていて東大を目指そうかなんて思っていたんですが、一瞬でやめました。この学校の誰もが自分の好きなことを勝手気ままにやっている自由な雰囲気に、僕自身あっという間になじんだからです。
志木高は日本にある慶応の一貫校の中で唯一大学のキャンパスから離れた場所にあって、前身は慶応義塾農業高校です。敷地も広大で、大きなサッカーグランドももともとは牧場だったとか。そういうのんびりした雰囲気があるせいか、同じ慶応の付属でも義塾高は都会的で洗練された人が多く湘南藤沢高(SFC)は真面目で勉強熱心、というイメージに対して、志木高はそのどちらでもない。良くも悪くも怠惰というか、授業が休講になってもみんなどこに遊びに行くでもなく食堂に集まって、まったり無料のお茶を飲んでいて、ここは老後のおじいちゃんの集まりか?と思ったこともありました。
でも僕は本当にこの学校が好きでした。特に良かったのは、押し付けられる勉強が全くないことです。大学受験を気にしなくていいので、先生たちの授業はめちゃくちゃ自由だし、エキセントリックな先生ほどリスペクトされる。慶応大から来て平気でゼミレベルの授業をする先生もたくさんいました。僕が高1の時の社会の授業は、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』とエミール・デュルケームの『自殺論』を読むという内容で、大学の授業ってこんなに面白いのかと夢中になって本を読みました。
他にも、漢文の先生は自分の専門の中国思想についてひたすら語っていたし、世界史も先生が好きな大航海時代で1年が終わりだし、日本史も神話の時代からいきなり福沢諭吉に飛んじゃうし。国語で鴨長明の方丈記を読んでクラスごとに1カ月間、なぜかずーっと小屋を作ったこともありました。国語の中地譲治先生は、延々とスタジオジブリ作品について語ることで有名で、テストも「となりのトトロ」のメイちゃんが大きなクスノキを見てくしゃみをする理由を述べよとか、川を越える場面の意味を答えよとか。くしゃみと太陽信仰が関係しているとか、川は宗教的に浄と不浄の境界を意味するだとか、いろいろあるらしいんですが。