「愚直に行動観察」 牛窪恵さんが心の余裕を説く理由
働く女性のキャリアスパイス(3)
キャリアコラム自分を大切にしなければ他者に興味を持てない
「行動観察」から「気づき」を得るには、心の余裕が大事だと説く。
行動心理学や行動経済学を学んでいくと分かります。自分を大切にしていないと、他者の行動や言動に興味を持つこと自体が継続できなくなってしまうのです。だから、講演の際は、よく最後に「自分を大切にしてください」と伝えています。
いま、求められているイノベーションとは、それまでにあった何かを新しい視点で別の何かと融合させ、新たなものを生み出すこと。その起点となる「あ、これとこれを融合させたら面白いね」という気づきを得るには、いろいろなヒントがあっても心に余裕がないとだめなんです。例えば一人暮らしをしていて毎日、会社と家の往復で空いた時間はずーっとスマホを見て、という生活だとしますね。その間にLINEのメッセージに答えたりTikTokに投稿したりと、いまは隙間時間も埋めている人が多いわけですが、自分の内面にきちんと向き合わなければ心の声に気づけない。
だから、ビジネスパーソンの皆さんに1日の中のどこか、あるいは1週間の中で意識的に何回か、スマホもオフにした一人時間を持つことをおすすめします。私自身は「ホテルオタク」。月に2、3回は必ずホテルでぼーっとする時間を持っています。その時間を持たないと、少し俯瞰して「この先、こういうことに力を注ぎたい」といった中長期的な目標に思いが至らず、今のことしか考えられなくなってしまう。この10年ほど、意識的に自分の時間を大事にする生活スタイルを取り入れています。
「つらくても5年は続ける」と決めた新入社員時代
マーケターとして消費者の不安や悩みにも目を向け、「心の余裕」の大切さを説く背景には、自身や周囲の心身の不調が仕事上の転機をもたらしたことも関係しているかもしれない。ここからはキャリアの変遷をたどる。自身のキャリアには、家族の影響が少なからずあるという。父は民放のドラマ制作プロデューサー。その関係で幼い頃からドラマや映画の制作現場に足を運び、クリエーティブな仕事に関心を持つ。日本大学芸術学部映画学科(脚本)を1991年に卒業し、新卒では大手出版社に入社。だが、入社1週間で「丸5年続けたら、転職しよう」と決意した。
大学入学前から、ずーっと映像制作の台本が書きたくて。自分で取材してCMや映画の脚本を書くことを希望していました。ところが、就活段階で希望していた映像制作の部門は他社に譲渡されて……。出版社の仕事に対する自分の認識が甘かったのがいけないのですが、大手出版社は当時、「書く仕事」を外部の編集プロダクションに依頼するのが当たり前でした。入って1週間で「自ら現場に出向いて書く」はできないと分かってしまいました。
それでも、どんなにつらくても5年は続けることにしました。入社式での役員の方の言葉が今でも印象に残っています。「1つの会社で3年とか5年、続かない人間はどの会社にいっても一生続かない」と。なにくそ、と思う気持ちがあったのです。確かに結果的には、出版社で身に付けた編集スキルや根回し、収支報告の見方などが後になって役立ちました。
「1週間もじっとしていられない自分」に気づいた日
編集者として大御所の漫画家のもとにも通い、「楽しいこともあった」。一方で、セクハラに遭ったり多忙で身体を壊したり。そんなとき、優秀な女性の後輩がメンタルに不調をきたして退職。「彼女を守る盾になってあげられなかった」との残念な気持ちも大きく、予定通り丸5年で退職。そこで「1週間もじっとしていられない自分」に気づく。
当時、3カ月休んだらニューヨークにプチ留学する予定でした。在社中から著名なシンクタンクが主催する広告講座に通っていて、次に何をしたいか自分なりの考えもあったのです。ところが、いざ辞めてみたら休むどころか2、3日でもうじっとしていられない自分がいて。早速、当時発行されていた女性向けの就職情報誌を買って「派遣社員として働こう」と考えました。
当時はオフィスに「1人1台」のパソコンが普及し始めた頃。自分がやりたいことを考えると、表計算などのソフトを扱うスキルや画像加工の技術も身につけたい。けれどスクールに通えばお金がかかってしまう。そこで勉強しながら働けると、スキル習得のセミナーも開いていた大手派遣会社に登録したのです。渡米までの3カ月、派遣社員として大企業で働きました。そのとき、正社員にだけ「健保だより」が配られるなど、同じように働いていても女性に多い非正規雇用者には日常的な「区別」があることを感じました。
「働きたい」 母の真意が分かる
渡米から帰国後、マスコミ関係の仕事で知り合った相手からストーカー被害に遭う。恐怖で外出もできず、「13~15キロ痩せてしまい、缶詰の離乳食しか食べられなかった」。00年11月のストーカー規制法施行前だったが、知人の助けもあり弁護士を立てるなど早期に対策を講じて苦境を乗り切った。だが、その頃手掛けていた仕事はすべて中断に。その出来事から自分にとっての仕事の意味を改めて理解することになる。
大した仕事をしていた気はなかった。けれど、それまで育ててやってきたものを全部奪われたときに、つらくてたまらなかったのです。それまで自分にとって仕事がそれほどのものだとは気づいていなかった。私は99年に結婚しましたが、実は学生時代には「結婚したらバリバリ仕事というレベルまでは働きたくない」と思っていました。
いま産業カウンセラーとして働く母は、ずっと仕事をしたかった人。両親とも早稲田大学卒で、母は四大卒(四年制大学卒)の女性が少なく民間企業への就職が難しかった時代に、(学歴、男女、国籍は不問として63年に採用活動を始めた)草創期のリクルートに新卒で入社し、調査の分析なども手掛けていたそうです。けれど、父は地方出身の長男で「男たるもの」と言われて育ったような人。結婚後は母が働くことを許しませんでした。それでも父が仕事で不在の昼間や家族が寝た夜中に、母がこっそり学習指導の添削をしていた姿を覚えています。私は子供心に「なぜそこまでして働くんだろう」と疑問に思っていました。
けれど、自分が全部仕事を奪われてみて、我が子が全員さらわれてしまったような、実につらい気持ちになった。「自分の尊厳を保つうえで、1人の人間として誰かに必要とされる仕事をしたい」。そう言い続けていた母の気持ちが初めて分かりました。