女子バスケ五輪銀、陰の立役者 実績ゼロの元渋幕教員
バスケットボール女子日本代表ヘッドコーチ 恩塚亨氏(上)
キャリアの原点県大会進出も保護者には不評
張り切って1年目からバスケ部の指導に打ち込んだ。日高氏から学び取った理論や指導法、さらに大学時代に小学校のミニバス指導で培った経験が大いに役立った。熱い指導に生徒たちもよく応えてくれ、就任4年目でチームは初めて県大会に出場。しかし、うまく行き過ぎたことが逆に、保護者からの不評という思わぬ結果を生むことになる。

渋谷教育学園幕張中・高で保健体育教師として勤める傍ら、女子バスケ部のコーチに。チームは強くなったが、待っていたのは保護者からの不評だった
「保護者会はかなり冷ややかな雰囲気でした。厳しい受験戦争を勝ち抜いて入った進学校で、我が子はあくまで健やかな体づくりのためにバスケをやっていたはずなのに、目の色が変わって『試合に絶対勝ちたい』と言い出し、家で筋トレの話なんかし始めたと。親御さんからすると、そこまでバスケに本気になることは期待していないし、その先の受験のことを考えれば、勉強がおろそかになるのは困るというわけです。言われてみれば、親御さんが不安に感じるのも無理はないなと」
情熱をぶつける先を失い、もんもんとしていた頃、その後の恩塚氏の生き方に大きな影響を与える人物と出会った。当時、大手邦銀に勤めていた吉岡貞親氏だ。バスケット好きが高じて、カナダ・トロント駐在中に米プロバスケットボールNBAの選手や関係者と個人的に親しくなったというユニークな人物で、強固な人脈を生かして選手らを日本のチャリティーイベントに招へい。渋幕中・高でも選手の講演会・講習会を実施することになり、同校にやってきたのだった。意気投合した2人は以来、月に1度のペースで会って一緒にバスケをしたり、親しく話をしたりするようになった。
その中で吉岡氏から聞いたのが「自分の人生は自分で作るもの」という言葉だった。
「衝撃でした。それまで僕は、教員なら教員として、目の前に与えられた仕事をこなして生きていくのが人生だと思っていた。でも吉岡さんは、今与えられた環境に人生をゆだねるのではなく、自分の人生は自分で作っていけばいいし、そのことに価値があるのだと。そのためには、本当は自分は何をしたいのか、どうありたいのを考え、『志』を持つこと。そして自分から行動を起こし、挑戦することが大事なんだと話してくれました。それを聞いて、ああ、僕はこれまでいろんな理由を見つけて、あれができない、これができないと勝手に閉塞感を感じて、自己肯定感を下げていただけで、自分では何の行動も起こしていなかったと気づいたんです」
「新設大学に女子バスケ部を」企画書を持ち込み
ちょうどその頃、渋幕中・高の運営母体と同じ系列の学校法人で、新たに東京医療保健大学を創設する話が持ち上がっていた。大学バスケという場なら、自分の情熱を思い切りぶつけることができ、それを歓迎してくれる学生と共に夢を追えるのではないか。新しい挑戦の場を、自分で作り出すチャンスだ――。吉岡氏との出会いをきっかけにポジティブ思考になっていた恩塚氏は早速、創設する大学で女子バスケ部を作る構想をまとめ、企画書を持ち込んだ。
だが、ひとりの教師のとっぴな思いつきに、すぐにゴーサインが出るほど世の中は甘くない。どんなコンセプトでどんなチームを作りたいのか。企画書を何度も書き直し、具体的なビジョンを肉付けしていった。05年12月、ようやく学長から「わかりました、やりましょう」という言葉を引き出した。