スーパーカー「オロチ」トヨタやホンダが応援したワケ
光岡自動車(下)
ヒットの原点輸入車販売の持ち味を発揮
「オロチ」ほどではないにしても、光岡自体も「異形」の自動車メーカーだ。基本的には独自のエンジンを開発せず、主にボディーや内装でオリジナリティーを際立たせるスタンスを守っている。自前の輸入車販売ネットワークを持っているのも、メーカーでは珍しい。こうした特徴は光岡の成り立ちに由来がある。
同社の創業は54年前の1968年。国産自動車ディーラーの営業担当者だった光岡進氏が脱サラして中古車販売・修理会社の光岡自動車工業を興した。中古車販売で業績を拡大し、79年に光岡自動車を設立した。輸入車販売にも参入して独自の販売ネットワークを広げていった。

光岡自動車の渡部稔執行役員
渡部氏は「当時は地域間で中古車の価格に開きがあった。地方で仕入れた商品を首都圏で売りさばくと、かなりの利益が見込めた」という。地域をまたぐビジネスは光岡が全国的なネットワークを築く原動力となった。
光岡は様々な規制と向き合ってきた歴史を持つ。たとえば、1982年に発売した、排気量50ccのミニカーがそうだ。当時は原付免許で乗れたので、人気を集めた。
しかし、事故を誘発しかねないとして、当局が普通免許への切り替え方針を打ち出す。最大手だった光岡は再考を訴えたが、意見が通らず、85年からは普通免許が必要になった。ミニカー需要はすぼみ、光岡も同年に撤退を決めた。
ところが、ミニカー分野からの撤退を決めて傷心の進氏は気晴らしで訪れた米国で、次のビジネスの種を見付ける。クラシックカーに似せたレプリカ(複製品)車を見て、日本での事業化を着想。87年からカスタムカー製造に乗り出した。
米国で出合ったのは、往年の名スポーツカー「ポルシェ356スピードスター」のレプリカ。「創業者の根っからのクルマ好きが着想につながった」(渡部氏)。フォルクスワーゲン車がベースのレプリカにヒントを得て、エンジンや基幹パーツは変えずに、ボディーや内装で見た目を変えるカスタムカー事業を立ち上げた。
光岡が外国車輸入を始めたきっかけも、50ccミニカーの売れ行き不振にあった。米国に輸出して売れ残りをさばこうと、ロサンゼルスを訪ねるうちに、現地での乗用車価格の安さに気づいた。87年にはロスに現地法人を設立して、外国車輸入を本格化した。外国車の販売は今も光岡の主な収益源。短期的には利益が上がりにくいオリジナル車事業を下支えする屋台骨ともなっている。