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田村哲夫理事長兼学園長

田村哲夫理事長兼学園長

経営難の女子校再建、千葉都民を狙い渋幕開校

多様な人材を対象にした教育には手間とコストがかかる。校内には留学を支援する専任教員もいる。開校したばかりの渋幕高校に入学した元日本マイクロソフト社長の平野拓也さんは、「ダンスパーティーを開催したいと提案したら、学校側が費用まで出してくれた」と振り返る。平野氏の母親は米国人、父親は日本人。「日本で生まれ育ったが、見た目は外国人だったのでよく変な目で見られた。しかし、渋幕はダイバーシティな環境で居心地が良かった。渋幕で出会った留学生の刺激を受け、海外に憧れた」といい、米国の大学に進学した。

渋幕、渋渋という全国有数の進学校2校を創った田村理事長。しかし、決して順風満帆ではなかった。麻布高校から東大法学部を卒業して住友銀行(当時)に入行。海外候補生のエリート行員だったとき、父親から経営難に陥った渋谷女子校の再建を託された。自ら英語の教員となり、徐々に進学実績を上げた。国際化時代を担う新たな学校づくりを模索していた時、千葉市で開発の始まった「幕張新都心」から中等教育機関をつくる話が舞い込んだ。

渋幕を創立した1983年は、千葉県浦安市に東京ディズニーランドが開業した年でもある。78年には成田空港が開港、国際化に敏感な「千葉都民」が急増していた。一方で、90年代初頭にバブルが崩壊、東京都心から遠い千葉の新都心の昼間人口は想定通り伸びず、「幕張難民」とも呼ばれた。そんな中で、渋幕は千葉都民の優秀な生徒を集め、進学実績が急上昇した。田村理事長の戦略はズバリと的中、続いて渋渋を立ち上げ、一層の国際化対応を進めた。

日本の教育界は、東大を頂点としたヒエラルキー社会。「いまさら灘や開成などトップ進学校を目指しても、かなわない」と考えた田村理事長は、国際化という時代を読み、グローバル人材育成を掲げた進学校づくりに取り組んだ。今や開成や灘高でも海外の有名大学を目指す生徒が増加している。「渋幕・渋渋の奇跡」は決して偶然の産物ではない。保守的な教育の土壌の中で、あえて多様性、グローバル化に挑んだ教育者の卓越した戦略と実行力のたまものと言えるだろう。

(代慶達也)

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