ITも金融も育児も学び インド出身初の公立高校長へ
myリスキリングストーリーIT大手の難関試験突破、経営大学院で学び直し
03年から日本ベースのIT技術者となった。インドに本拠地を置く世界有数のIT企業インフォシスの難関入社試験を突破。「子育て優先のため出勤は午前10時」という条件を付けての入社だった。
05~06年にはインド経営大学院コルカタ校で主に金融を学んだ。金融機関でITのニーズが高まっていたからだ。ゴールを明確にして戦略を描くマネジメントのノウハウを身につけた。仏リール大学(現在のスキーマ・ビジネス・スクール)でも戦略的プロジェクト管理も学んだ。
10年にキャリアの転機が訪れた。インドから日本へ向かう飛行機のビジネスクラスで2人の紳士と出会った。1人はユニクロを展開するファーストリテイリング会長兼社長の柳井正さん、もう一人はみずほ銀行のCIO(最高情報責任者)重田敦史さんだった。両者と意気投合した。
ファーストリテイリングから「インドでも出店したい。まずはIT次長席として来ないか」とオファーを受けた。同時にみずほからも誘われた。迷った末、経営大学院で学んだ金融の知識を生かせると、みずほに調査役として入行。出勤は午前10時という条件も飲んでもらった。海外店舗の開設、ペーパーレス化や次期システム開発などを推進。ビジネススクールでのリスキリングが奏功した。
11年の東日本大震災を機に地域でボランティア活動を始め、12年には日本に帰化した。その頃、都内では在日インド人が増え始めていた。特に江戸川区西葛西に多くのインド人が集まった。この街でインド人社会と地域住民との橋渡し役を担うようになった。17年に全日本インド人協会を立ち上げた。
同年、人生の転機が到来した。ある地元区議と数人のビジネスマンが「リトルインディア」をつくろうと提案してきた。しかし、それが日本人とインド人の間に溝をつくりかねないと反対し、口論となった。
「私にはあなたの仕事ぐらいできるよ」と区議にこう口走ってしまった。この言葉がその後の人生を変えた。「地元PTAのママたちや周辺の方々との対話を重ねるうちに区議選に出馬しようと考えるようになった」と話す。
その頃、楽天銀行から副本部長にと誘われていた。同銀トップと面談したとき、「君は政治家向きな気がするね」と言われた。「保守的な江戸川区で外国出身の政治家など1回目の立候補で受け入れられるはずがない」と思いながらも出馬。意外にも5位で初当選した。楽天銀行に転職してわずか2カ月で辞めざる得なくなった。「アジア出身初の政治家」と反響を呼んだが、いきなり出馬が決まった21年の都議選ではキャンペーン期間不足で落選した。

よぎ副校長は、多くの生徒の顔や名前、部活も覚えた。
失意の中で、新たなチャンスが舞い込んできた。茨城県が民間人校長の公募に乗り出した。学びの場は、よぎさんのホームグラウンドだ。グローバル人材の育成を目指す同県から白羽の矢が立った。1年間の副校長を経て3年間の任期制で校長を務める。
「英国では初のインド系首相が誕生したが、日本でインド出身の自分は何ができるだろうか。教育にITを活用しようと提案して受け入れてくるかな。しかし、私はまだまだ自分を育てたいと考えている」と語る。"ミスターリスキリング"の学びは止まりそうもない。
(代慶達也)