ホリエモンに迫られロケット決意 東工大で鳥人めざす
稲川貴大・インターステラテクノロジズ社長(下)
リーダーの母校ありがたかったのは、大学の構内にものつくり教育研究支援センターという施設があったことです。在籍していれば個人でも授業・研究室でもサークルでも誰でも利用でき、旋盤やフライス盤などの工作機械や、当時はまだ3Dプリンターは出ていませんでしたが、それに近い機械などもあって、すべて使いたい放題なのです。3、4年はそこに入り浸り、組み込みコンピューターなども自分で作れるようになりました。
東工大大学院に進み物質の加工に関する最先端技術を研究。一方、宇宙産業に携わりたいと就活に励んだがうまくいかず、大手光学機器メーカーの内定を得た。しかしその入社式直前に、同じく宇宙産業に希望を抱いていた堀江貴文氏と出会う。
当時、アメリカでは民間ロケットが打ち上がり、宇宙産業が成長分野として大きな期待を集めていました。日本もいずれそうなるという思いがありましたし、自分自身もロケットづくりの魅力に取りつかれていたので、宇宙航空研究開発機構(JAXA)や三菱重工業の就職試験を受けました。でも結果は不合格。相当狭き門でした。修士論文のテーマがレーザーの加工技術で光学には詳しかったので、光学機器メーカーから内定をもらいました。
修士論文も書き終わった大学院2年の秋から、「なつのロケット団」の手伝いをしようと北海道に行くようになりました。学部生の頃から夏休みを利用して手伝っていたのですが、ちょうどその頃、翌年3月に「ひなまつり」というロケットの打ち上げ実験を控えていたのです。
当時は初代IST社長だった牧野一憲さんを含む数人しか工学的バックグラウンドがある人がいなかったので、ロケットに搭載する電子機器まわりや打ち上げた後にロケットから発信されるデータの解析などを全て任されていました。「お手伝い」なのに、なぜか管制卓の最前線に座っていましたね。打ち上げは予定していた3月3日の天候が悪かったので3月29日に延期され、僕も一旦、機器の微調整のために東京に戻りました。そして再度、北海道に戻る頃、ライブドア事件で実刑判決を受け、収監されていた堀江貴文さんが仮出所し「激痩せしたホリエモン」がニュースになっていました。
なつのロケット団に堀江さんが関わっていることは知っていたものの、面識もないので「あのホリエモンかあ」という程度の認識だったのですが、その堀江さんがすぐに北海道の打ち上げ現場にやってきました。当日、僕は管制卓に構えていましたが、実験は大失敗。飛び上がることなく地上で燃えているロケットをぼうぜんと眺めているときに、堀江さんが話しかけてきました。
「君、これからどうするの?」
「カメラメーカーに就職します。今後は社会人ボランティアとして関わらせてもらいたいので、よろしくお願いします」と答えました。堀江さんが「いやいや、カメラじゃなくてロケット作ろうよ」と言うので、「いやいや、そう言われても3日後が入社式なんで」みたいなやりとりがあって。それで撤収作業が終わってみんなで焼肉屋に行った際にもう一度話をして、堀江さんの宇宙事業への熱い思いを改めて聞いたのです。
堀江さんってメチャクチャな部分もたくさんありますが、何より頭が切れるし、将来予測に関しては天才的だと思います。一般の人の二歩も三歩も先を読んでいて、それをストレートになんの忖度もなしにズバズバ話すので、なかなか理解されないのですが、話をしながら僕自身は堀江さんと一緒に夢を追いかけることを想像し、ワクワクが止まらなくなりました。それで最後に「君はカメラとロケットどっちを作りたいんだ?」と言われ「やっぱりロケットです」と。東京に戻り入社式当日に、本当に非常識だったと申し訳なく思いますが、内定を辞退しました。