残念家庭の不登校児が麻布へ 先端文化人と交流で転機
エール大学助教授 成田悠輔氏(上)
キャリアの原点だが授業に出なくても勉強は抜群にできた。母のたっての希望で受験した私立男子校御三家の一つ、麻布中学(東京・港)に合格。母は苦しい家計の中から授業料をひねり出した。ただし、麻布には通ったというより「所属していた」だけで、不登校の傾向は変わらなかった。特に高校では毎年、出席日数が足りず進級に赤信号がともり、先生たちによる「プリント1枚の提出で出席10回に換算」といった計らいで、なんとか落第を免れていた。
中学生で柄谷行人氏のグループに出入り
しかし、この中高時代に成田氏は学校の外で知的好奇心の翼を大きく広げていく。時は1990年代半ば。学校に行かず街をフラつけば、ブックオフやレンタルビデオショップがそこかしこにあり、100円、200円という安価で本や映画、音楽の世界にどっぷりとハマることができた。さらに普及しつつあったインターネットには、教室では学び得ない世界が広がっていた。知り合いのコンピューターマニアに作ってもらったPCで、当時ネットコミュニティーの中心だったメーリングリストや掲示板をのぞいて回り、やがて批評家の柄谷行人氏らのグループに行き着いた。
「その頃、柄谷さんは『NAM』(ニュー・アソシエイショニスト・ムーブメント)という怪しい社会運動を始めていたんです。社会思想や哲学系の人や、文学・音楽関係の人、それに政治活動家のような人たちが集まる謎のコミュニティーがあり、そこに僕も出入りするようになりました。ちょうど運動のパンフレット的な位置付けで『NAM生成』という本を作ることになり、浅田彰さんや坂本龍一さん、のちにスマートニュースを創業する鈴木健さんなんかも著者として名を連ねたのですが、中学生だった僕はその本の注釈作りをバイトでやりました。版元の太田出版から3万円だか5万円だかを受け取って、それが15歳くらいだった僕が生まれて初めて手にした仕事の報酬になりました」
知識人たちの難解な議論に食らいつく早熟な中学生は面白がられ、「NAM生成」の著者たちの講演会を手伝ったり、そのつながりで60年代の学生運動家たちの飲み会にも同席させてもらったりした。「インターネットを使えたことは情報を手に入れる上でも人やコミュニティーを見つける上でも、一世代前の人とは比べものにならないくらい有利だった」と成田氏。高校に上がってからは英語の学術論文などもダウンロードし、理解しようともがいていたという。
「今考えると、学校に行っていなかった分、無限にあった時間と、東京という場所が持つ、過剰な情報が安価であふれかえっている状況と、ネットを介して垣間見る世界とが、僕の中でうまく化学反応を起こしていた。結果的に学校に行って授業を受けるよりも多くのことを学んだように思います.学校に行かなくて本当によかった」