残念家庭の不登校児が麻布へ 先端文化人と交流で転機
エール大学助教授 成田悠輔氏(上)
キャリアの原点予備校教師の教える技術に驚き
一方、家庭の状況は悪化の一途をたどっていた。父がフラフラしながらも勤めていた中小企業が偶然時代の波に乗って急成長し、一部上場企業になったが、それが成田家にはマイナスに働いた。「上場企業勤務」として与信枠が広がったために、父の借金の額が一気に膨らんだのだ。追い詰められた母は父の会社の住宅ローン補助プログラムを使って金を借り、それを消費者金融などの返済に回すという、やってはいけない自転車操業に陥った。
そして高校卒業を前に、父が突然「新しい人生を始めたい」などと言い残し、失踪する。母は精神的に不安定になり、家庭はさらに困窮した。そんな中、卒業時期はいや応なしにやってきたが、受験のための勉強など何年もしていなかったので、センター試験も「暗号にしか見えず」、早々に受験戦線から撤退した。その後は引きこもり時々バックパッカー生活に突入するが、「友だちもいなかったため、周りと自分を比べて不安になったり焦りを感じたりすることはなく、ただただ自分の世界に閉じこもっていた」。しかし、1年ほどしたところで、どうにか大学に行ってほしいと嘆く母に反抗する強い意志もなかったという理由で、ようやく大学受験を決意する。
当人いわく「頭脳競争みたいなものにはがんばらなくても勝てる」ので、予備校はチラシにあった体験授業をのぞいたのみ。だがそこで、予備校教師の技術に驚嘆したという。
「予備校は、僕自身の受験にはほとんど役に立っていませんが、人に情報を伝えたり授業をしたりする原点となったイメージの1つは、あの時のぞいた予備校で得た気がします。授業をするという視点で見ると、予備校の先生たちの技術は本当にすごくて、大学の先生なんて足元にも及ばないです」
その後も塾・予備校教師に対する尊敬の念はやむことなく、エール大助教授となった今も、時折こっそり予備校の体験授業をのぞきに行っているのだという。そんな成田氏の東大以降の歩みについては、後編で紹介する。
(ライター 石臥薫子)