コレラ史から照らす現代 根深い迷信、政策ミスは今も
『「感染」の社会史 科学と呪術のヨーロッパ近代』著者に聞く
ブックコラム経済的損失を恐れた1892年の独ハンブルグ市政
――他方コッホは科学と政治・経済との対立現場に直面しました。
「1883年にエジプトで流行したコレラ禍に関して仏独英がそれぞれ調査団を派遣し、コッホは独調査団長でした。普仏戦争後は、どちらがコレラ菌を先に発見できるかで国家的威信もかけて競いました。コッホは、船舶を通じてインドからエジプトのスエズ運河に伝わったと考えてインドに渡り、当地でコレラ菌を発見したと主張しました」
「これに反発したのが英調査団でした。コッホ理論が正しいならば、欧州への波及を防ぐためにスエズ運河で海港検疫を敷くことが肝要です。しかし検疫は商品の流通を長期にわたって止めることになり、英経済への大きな打撃は確実でした。そのため英調査団は、コレラはエジプトの異常気象で発生した局地的な疫病だとする瘴気(ミアズマ)説を主張しました」
――コッホは、独ハンブルグで大流行した1892年のコレラ禍にも中央政府から現地に派遣されました。

村上宏昭・筑波大助教は「社会が分裂が拡大しては感染症の拡大は防ぐことができない」と警鐘を鳴らす
「当時のハンブルグ市は欧州有数の交易都市かつ造船業の中心的な拠点であり、東欧やロシアから米国に渡る移民の中継地でもありました。現地入りしたコッホは、早急に必要なコレラ対策として船舶検疫と消毒措置が必要と提案したものの、市当局は消極的でした。コレラ菌が発見されてから約8年がたち、医学的な知見が一般にも普及していたのに、ハンブルグ市はコレラ流行という事実自体にも否定的だったのです。表面的には市街は平和そのものを演出しながら、裏腹に総合病院の敷地内には70棟ものテント型病棟を設置する状況でした」
――商品流通を長期に停滞させる検疫は、交易を基幹とするハンブルグ経済を痛撃するからですね。
「最終的に、煮沸した浄水の供給、学校閉鎖、感染者の住居消毒、行商の果物販売禁止、公共の場での集会禁止――などに踏み切ったのはコレラ疑惑が浮上してから3週間後。結局8600人以上の犠牲者を出してハンブルグ史上最悪のコレラ禍になりました。ドイツではハンブルグ発の郵便物を燻蒸するばかりか、慌てふためいてベルリンへの電話回線すら切断したこともあったそうです」
「ハンブルグでは所得が高くなるほど罹患率は低くなりました。19世紀初めのコレラ犠牲者が貧困層に偏っていた傾向が、世紀末まで続いたといえます。市当局が労働者街の水道ポンプに使用禁止の張り紙を貼っても『誰も読まないし、読めない』と平気で使っていました。ただし、いったんコレラに罹患してからの致死率は、所得に関係なく5割以上でほとんど一定でした」