桐朋学園でガキ大将、身につけたサッカー型組織運営法
新居佳英・アトラエCEO(上)
リーダーの母校主体性を重んじる桐朋学園の校風と、母子家庭という個人的な事情の相乗効果で、強い自立心が育まれたという。

「我が社は臨機応変の自律型組織が強み。そのベースには自主性を重んじる桐朋学園で過ごしたことと、小中高で打ち込んだサッカーがある」と振り返る
母子家庭だったので奨学金の支援も受けていました。成績良好であることが受給要件にもなっていたので、勉強は抜かりなくやっていました。宿題も授業直後の休み時間にだいたい終わらせていました。もともと要領がいいタイプだというのもあるのですが、そうならざるを得ない事情もありました。サッカーの練習を夕方5時半くらいまでやって、それから家に帰っても母は仕事でまだ帰宅していません。ですから私がご飯やおかずを温めて弟に食べさせたり、お風呂に入れたりしなくてはならず、宿題をする暇がなかったのです。子どもなりにどうすればいいか考えた結果、勉強は学校にいる間に集中して効率的にやればいいのだと気づきました。
母は1人で家計を担い、外資系企業の秘書などとして働いていたので、とにかく忙しかった。幼稚園の頃から迎えに遅れることもしょっちゅうで、それも10分とか15分ではなく、4時間とかもザラでした。閉園時間に間に合わない時は、担任の先生の自宅に連れて行ってもらって、そこで母が迎えに来るのを待っていました。おかげで、今でもその頃お世話になった幼稚園の先生とは親しくさせてもらっています。
多忙だったのもありますが、母は放任主義というか、よく言えば、自分のことは自分でやらせる方針の人で、かいがいしく子どもの世話を焼いたりはしませんでした。今でも覚えているのは桐朋小時代、制服の衣替えが私と弟だけみんなより1日遅れていたことです。他の家庭では大抵母親が衣替えの日を把握して用意してくれていたのでしょうが、私の母はまったく関知していませんでした。でも小3くらいからは自分で気づいて周りと同じタイミングで衣替えができるようになりました。そんな状況だったので、1日のスケジュールも、何時に起きてどこで何をするか自分で考え、弟にもアドバイスしていました。
私がやんちゃをして学校から親に呼び出しがかかっても、母は多忙を理由に学校に来ないことが多かったですね。いま振り返っても、母は一風変わっているというか、そのあたりは徹底していました。中学生の時は、今思えば不良に憧れがあったのか、友人とやんちゃをしすぎて無期停学という大事件を起こしてしまいました。その際も、母本人が来ずに母の部下だった女性が「おばです」と現れたのには、さすがの私もびっくりしました。当然、先生も突然現れた「自称おば」への対応に困っていました。そんな大事件だったのに、母本人からは一言「大人に怒られるようなことをやるんだったら、家でやってよ」と言われただけでした。