ペットを「うちの子」は当たり前? 動物の不適切表現
「亡くなりましたか……(涙)」
いい悪いは別にして(悪いかもしれない……)、「動物と人間の境目」が昔ほどはっきりしなくなってきたということだろう。ペットを「家族の一員」と考えたり、動物園のゾウを自分の人生に重ね合わせたり、その死にショックを受ける人が以前より多いような気もする(いい悪いは別にして……悪いか……)
「多様な言い方」を立場によって使い分ける時代
話が横にそれたが、犬に限らず、猫に限らず、動物園で見初めたゾウやゴリラが「友」であり、時には「メンター」でさえある、なんて考えるこの時代、動物の死をどうニュースで伝えるのか?
この問題に真正面から挑む「"動物が亡くなりました"はおかしいですか?」という問いから説き始める秀逸な論文がある(日本語のゆれに関する調査、2015年3月実施、放送研究と調査2016年6月掲載)。
筆者はNHK放送文化研究所メディア研究部の山下洋子さん。本連載でしばしばお世話になっている、塩田雄大主任研究員のお仲間のおひとりだ。山下さんは2016年3月、大阪市天王寺動物園で飼育されていたコアラが死んだニュースを例に挙げ、語り始める。
(コアラを手塩にかけて飼育してきた)動物園スタッフはFacebookに「コアラのアルン19歳が亡くなりました」と投稿したのだそうだ。
一方で動物園を管轄する大阪市は「コアラが死亡しました」と報道発表。それを受けて、報道各社はどう報じたか……?
・朝日新聞「~コアラ『アルン』が死んだ」
・毎日新聞「天王寺動物園は~死んだと発表した」
・読売新聞「天王寺動物園は~死んだと発表した」
・時事通信「大阪市は~死んだと発表した」
ニュースとして客観的に事実を伝えるメディアは「死にました」。
動物園を管轄する大阪市は「死亡しました」。
直接飼育に当たった動物園は「亡くなりました」。
「死んだ」→「死亡した」→「亡くなった」
世間は「多様な言い方」を立場によって使い分ける時代に突入しているらしい。もはや「動物には死んだ」の一本やりでもなさそうなのだ。
コアラとの距離が遠ければ遠いほど「死んだとズバリ表現」を用い、近くなればなるほど「亡くなったという曖昧な、柔らかく丁寧な表現」を使う。「死亡した」はその中間的な立場で使われるらしい。
辞書に「新しい動き」を発見!
「動物の死」を語るのに少なくとも「死んだ」「死亡した」「亡くなった」を含む複数の表現がある。現状では動物について、少なくともニュース報道では「死んだ」以外の「死亡した」「亡くなった」は見かけない。
しかし辞書には新しい動きも見えている。
三省堂国語辞典は「死亡」について「人・動物が死ぬこと」と、対象となるのは人と動物」と書いている。結構画期的だ。
これがさらに進んで、人気のパンダやコアラや「猫の駅長さん」の「死」をニュースが「亡くなった」と報じる、なんて時代は来るのか?
「動物には餌をやる」「花に水をやる」が適切で、人間以外に「餌をあげる」「水をあげるなどとんでもない!」との厳しい規範も、だいぶ緩んできた。
はな子がもっと長生きしていれば、「はな子亡くなる」という報道がなされることになるのだろうか? はな子の死を悼みつつ、夢想した……。
[2016年6月23日公開のBizCOLLEGEの記事を再構成]

1950年生まれ。早稲田大学卒業後、文化放送のアナウンサーになる。92年からフリーになり、司会業を中心に活躍中。東京成徳大学客員教授(心理学修士)。「日本語検定」審議委員を担当。
著書に『すべらない敬語』『そんな言い方ないだろう』『会話のきっかけ』 『ひっかかる日本語』(新潮新書)『敬語力の基本』『最初の30秒で相手の心をつかむ雑談術』(日本実業出版社)『毒舌の会話術』 (幻冬舎新書) 『プロのしゃべりのテクニック(DVDつき)』 (日経BPムック) 『あぁ、残念な話し方』(青春新書インテリジェンス) 『新米上司の言葉かけ』(技術評論社)ほか多数。最新刊に『まずは「ドジな話」をしなさい』(サンマーク出版)がある。