危うさ抱えた人間に共感
人事院総裁 一宮なほみ氏


いちみや・なほみ 1948年東京生まれ。中央大法卒。司法試験合格。横浜地裁判事補を振り出しに水戸地裁所長、仙台高裁長官など歴任。2014年から現職。
昨年亡くなられた哲学者の鶴見俊輔先生と伯母が親しかったご縁で、『少年少女文学全集』の1冊を小学校の入学祝いにもらいました。分厚いうえに字も小さい。小1には難物でしたが、負けず嫌いだったので必死で読みました。有島武郎の「一房の葡萄」を繰り返し読んだことを覚えています。
小さな字を読み慣れると、どの本も楽に読めるようになります。小学校では主に童話、中学・高校時代は国内外の文学作品を読みあさりました。与謝野晶子訳の『源氏物語』を読んだのもこのころです。
そういえば、小説らしき文章を書いて、鶴見先生に添削してもらったこともありました。いま思うと汗顔の至りですが、こうした積み重ねのおかげで読解力や文章力が身につきました。
アガサ・クリスティーといえば、言わずと知れたミステリーの大家ですが、殺人も探偵も出てこない作品をいくつか書いています。『春にして君を離れ』はそのひとつで、主人公は自分の尺度でしかものごとを測れない主婦です。その尺度は偏見に満ち、想像力に欠けます。
ところが、病気の娘を見舞いに訪れた中東から英国への帰り道に悪天候で足止めを食います。砂漠の真ん中でひとり物思いにふけるうち、満ち足りていたはずの生活に疑問を抱き始めるのです。
相手のためと思ってやってきたことは、相手を苦しめていただけだった。自己満足のために愛する人を不幸にしていた。それに気付いていたのに気付かないふりをしていた。そうしたことに思い至ります。
人間誰しもが抱く思い込み。自分が見たいものしか見ない危うさ。そうしたことに気付かされた気がしました。目の前に予兆があったのに、なぜ本気で受け止めようとしなかったのか。そう思うことはありませんか。皮肉な結末も含め、一読をお勧めします。
曽野綾子さんの『幸福という名の不幸』は美人で頭もよく、他人からうらやましがられる主人公が恋愛や見合いを繰り返しても、相手の裏が見えてしまい、結局うまくいかないという物語です。とにかく実にさまざまなタイプの人間が登場し、人間研究の一助になります。
人間はプライドや虚栄心、不安や劣等感と無縁ではいられない。やすきに流れがちだけど、それでもみんな一生懸命頑張って生きている。そんな人間への共感が、私の仕事に向かう姿勢の原点かもしれません。
仕事がら、ときどき人前でスピーチをしなくてはなりません。何かネタを仕込まなくては……などと思って読んだ中にもよい本がたくさんありました。NHKが放送した「白熱教室」で有名になったハーバード大のマイケル・サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』は古今東西の政治哲学を紹介しながらの議論の展開に引きつけられました。

『内側から見た富士通』は裁判所職員総合研修所の所長時代に、『ビル・ゲイツの面接試験』は人事院総裁になって読みました。前者は富士通がいち早く導入した成果主義の内容と問題点について、人事担当だった元社員が書いたもの。後者はマイクロソフトが行うパズルを中心とした面接試験を紹介、分析しています。いずれも人事選抜のあり方について、考えさせられました。
人事院の役割のひとつに、公務員の人事行政の公平性の確保があります。才能に恵まれた人が大した努力もなく1日で仕上げられることを、そうでない人が懸命の努力で2日で仕上げた場合にどう評価するのか。業務を個人ではなくチームで行うとき、たまたま能力が高い人がチームに入ったために迅速に処理できた場合はどうか。その能力の高い人が次の職場では力を発揮する機会がなかったとしたら……。正解のない難しい問題です。
仕事を離れると、推理小説ばかり読んでいます。東野圭吾、宮部みゆき、湊かなえらはほとんど読みました。最近はまったのは伊坂幸太郎の『マリアビートル』。海外のスパイ小説もよく手にします。
(聞き手は編集委員 大石格)