富士そば、立ち食い一筋50年 ダメな立地は「秒殺」
ダイタングループの丹道夫会長

ダイタングループの丹道夫会長
立ち食い店の元祖「名代 富士そば」を運営するダイタングループの創業者、丹道夫会長はぶれない経営者のお手本だ。50年前に出会った立ち食いそばを磨き続け、別の事業には色気を出さない。「ダメな店の物件候補は今も秒殺」と今も出店成功の眼力を誇る。丹流の実践経営哲学を聞いた。
――富士そばの誕生のきっかけは。
「初めは弁当屋を営み、その後は不動産会社を経営して成功しました。毎日ステーキのようなものばかり食べてましたよ。でもこの商売はいつまでも続かないと思って。そんな折、旅行先の駅の通路下で年配の女性がそばを売っているんですよ。列車が来ると客が集まり、大繁盛。それを見たとたん、『東京にぴったり』とひらめきました」
「それで不動産会社の役員らに70万円を出資してもらい、東急百貨店本店(東京・渋谷)の通り沿いにある15平方メートルの物件を見つけました。もっともそば屋などやったことがない。すると従業員の1人が『見習いに行ってきます』と。1カ月ほどの修行ですが、そこから研究し、40円のかけそば、60円の天玉そばで店を開きました」
出店の条件、駅のそば・角地・道幅は…
――当時は立ち食いそばはなかったのですか。
「なかったですね。信用もないから銀行も貸さない。ところが東日本銀行の行員さんだけが毎日来て、面白い商売だと思ったのでしょう。それで融資をしてくれました」
――創業期から出店条件は変化していますか。
「変わりません。黒色の人通り、すなわちサラリーマンが多い場所。赤色(女性が好む明るい服の色)のお姉さんよりいいんだわ。道は広すぎてもダメで幅は6メートルくらい。そして駅のそばで、角地で間口が広いところ。食べたいという衝動が変わらないうちに入れるようにと考えています」
「今でも物件を役員が時折、見てほしいと言ってくるんですよ。瞬間的に決められる物件じゃないとダメ出しです。人間は欲深だから、じっくりやるといい条件と思い込み始め、ミスっちゃう。社員みんなから『秒殺される』と言われます」