立ち食いそば一筋、走り続けて半世紀 職を転々の頃も
「名代 富士そば」創業者 丹道夫氏(1)
後に母から聞いたところ、父の名前は大野釜次郎、事業家でした。陸軍省と取引があり、払い下げを受けた革製の馬具をカバンなどに仕立て直して売っていたそうです。かなり手広くやっていたということですから、商売人としての私の血は実父譲りなのかなと思います。
愛媛県に移り住んでからの母は生活のため、三味線を弾いて芸者をしていました。私は男の子だから教育が必要と母は考えて、お金のために丹高助と再婚することを決めました。当時、私は4歳、母は42歳、高助は59歳。西条市内の杉森製材所の社長の紹介でした。
新しい父は山林の立木を測定する仕事のほかにも、借家を何軒か持っていて、経済的には恵まれていました。父も再婚で、前の奥さんとは別れたようです。結婚式は父の家の大広間で催されました。紋付き姿の父の横に白無垢(むく)姿の母。「今晩から一緒に寝れないのよ」と母から言われたことは今でもはっきりと覚えています。
父の家は石鎚山の麓の大保木(おおふき)村、人口300人くらいの集落にありました。街中で暮らしていた私には「随分とさみしいところに来たなあ」という印象でした。日が落ちると、遠くに小松(西条市)の街の明かりがぼつんぼつんと見えたものです。
母が父と結婚を決めたのは当時、父に子供がいなかったこともありました。私のことを父もかわいがってくれると母は考えていたのです。ところが、翌年、思いがけないことが起きました。母の妊娠です。父は前妻との間に生まれた実子を亡くしており、弟が生まれたときの喜びはひとしおだったようでした。
生まれたばかりの弟を見たときの私の印象は「父に似ているな」。予想外の弟の誕生は私にとっても、その後の人生が大きく変わるきっかけになりました。当時の幼い私は家族が1人増えたんだと思ったぐらいでしたが……。
1935年(昭和10年)愛知県生まれ。愛媛県で育ち、高校中退後、青果店での丁稚(でっち)奉公を皮切りに各地で職を転々とする。4度目の上京の際、栄養士学校を卒業。給食業、不動産業を経て、67年、立ち食いそば店を開業した。72年に屋号を「名代 富士そば」に変更。2015年、長男に社長を譲り会長に。