信組金融マンから米酢の造り手に 素人が見込まれ転身
サラリーマンから「米酢屋」へ転職
実際に働いてみて、醸造の仕事は全てが手作業であり、しかも重労働であることを知った。肉体的には極めて厳しい仕事だ。
その一方で、手をかければかけるほどに、酵母や酢酸菌という「生き物」が、そんな人間の努力に応えるかのように、元気いっぱい活躍し、とびっきりの酢をつくってくれることもあるのだという。長谷川さんや従業員がうれしそうにそう語る醸造の奥深さに、戸塚さんも魅力を感じ始めていた。こうして戸塚さんは次第に「純米酢造り」にひきつけられていった。
長谷川さんの一時入院の日がやってきた。すっかり打ち解けた従業員(おば様たち)から声が掛かった。
「どうしても男手のいる作業があるの。戸塚さん、仕事が休みの日だけでいいから手伝ってくれないかなあ」
こうして戸塚さんは2000年4月、安定したサラリーマンの道を捨て、「廃業するはずの米酢屋」への転職を決めた。
酢酸菌や醸造についての知識ゼロからの「無鉄砲なスタート」だった。酢造りについては、上司でもあり、米酢造りの師匠となってくれるはずの長谷川さんが退院したら、一から学べばいいと、楽観的に考えていた。
ところが、ほどなく意外な事実が判明した。師匠の長谷川さんも、もともと自分と同じように、米酢造りとはまるで無縁な人だったのだ。
2代続いた「素人からのスタート」
長谷川さんが50歳のころ、地元の住職で精進料理の大家が「関東の地にも本物の米酢があったらいいのになあ」と言ったのを聞いて、後先考えず米酢の世界に飛び込んだというではないか。師匠にもまた「無鉄砲」の血が流れていたのかもしれない。
戸塚「私と同じで、米酢への熱い情熱は十二分にあったんですが、格別、発酵、醸造の知識を学んだ経験は、どうやらなさそうで、並外れた感性で素晴らしい米酢を造った天才です。すぐそばでその技を見て盗めればよかったのですが、師匠の体調不良、入院で、それができず、酢酸菌も日々弱ってきて」
手入れが行き届かなくなった酢酸菌はどんどん弱っていく。死んでしまえば、新しい酢を造る「種酢」を失う。酢酸菌の元気を取り戻すにはどうしたらいいのか。
酢造り専門の醸造所が日本にわずかしかないうえに、そこを他人に公開するところなど、あるはずもない。ただし、米から酢を造る前段階の「酒造り」は全国の酒蔵が一般客に公開しているケースが少なくない。戸塚さんは関東圏のほぼ全ての酒蔵を一般見学者に混じって見学し、杜氏さんや醸造担当者たちの酒造り行程を細大漏らさず脳裏にたたき込んだ。