馬場・猪木破った誇りと「ミスタープロレス」への怒り
元プロレスラー、天龍源一郎氏(11)

アントニオ猪木(左)にパワーボムを決める(1994年1月4日、東京ドーム)
「昭和のプロレス」を体現した人気レスラーで、65歳まで現役でリングに立ち続けた天龍源一郎氏の「仕事人秘録」。輝かしい戦績を重ねながらも、「自分はどこに向かっているのか」と自問した時期もありました。
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1994年1月、アントニオ猪木にフォール勝ち。日本人で唯一「ジャイアント馬場、猪木からフォールを奪った男」の称号を得た。
全日本プロレス時代、阿修羅・原と「天龍革命」をしている時から「いつか新日本プロレスのリングに上がりたい」と言っていました。(全日本の)大将の馬場さんは器量が大きく「いらんこと言うなよ」とは言いません。そしてついに新日本の東京ドーム大会で馬場さんと因縁のある猪木さんとの対決です。
組んでみると猪木さんは体をびしっとつくってきていて、さすがでした。全然勝てると思わなかった。強引に(相手の体を持ち上げ後頭部をリングにたたきつける必殺技)パワーボムにいき、レフェリーに3カウントを教えてもらいました。「勝っちゃったんだな」というのが正直な感想です。
その後はめちゃくちゃうぬぼれました。馬場さんに勝ったし、猪木さんにも勝って、ハルク・ホーガンとも戦った。でも「おまえどこにいくんだよ。おまえの終着点はどこだ」と自問自答する自分がいましたね。
そのころから「ミスタープロレス」と呼ばれるようになった。
「ミスタープロレス」なんてしょうもない言葉ですよ。「ミスターと言って隅に追いやって、はい、お疲れさん」という方向に皆がもっていこうとしているんだろうなと思っていました。
相撲界にいたとき、名力士を祭り上げ、実は隅に追いやって「一丁上がり」というのを見ていました。だから「なんで俺を隅に追いやろうとしているんだよ」と腹が立っていました。あれは当時マスコミがやたら代名詞をつけたがって、勝手に言い出したものです。
猪木戦勝利で勢いに乗ったのですが新日本との1年更新の契約が3月で切れてしまいます。僕は新日本のトップレスラーと戦い白黒つけていました。「新日本は天龍を使うだけ使って商品的には出がらしか。まだ金が落とせるのを見せてやる」と思ったとき、ちょうど大仁田厚が対戦相手を探し右往左往していました。