単位が足りず、教師は断念 大学授業料は自分で稼いだ
バンダイナムコホールディングス 元会長 石川祝男氏(3)

大学時代の友人と写る石川氏(右)
2018年6月にバンダイナムコホールディングスの会長を退任した石川祝男氏は、文化の異なるバンダイとナムコの経営統合に誰よりも前向きで、両社の文化融合に尽力しました。石川氏が社員に伝え続けた「元気よく暴走しなさい」というメッセージでした。その石川氏の「仕事人秘録」。第3回では高校、大学時代を振り返ります。
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高校2年生で両親に呼ばれて大阪に引っ越した
昭和をほうふつさせる「バブリーダンス」で話題になった府立登美丘高校に編入しました。当時は知名度も学力レベルも、今ほど高くありませんでした。
家庭が苦しく米の配達のアルバイトをしました。エレベーターがない5階建ての団地を30キログラムの米袋を担いで何度も往復しました。お金もないので関西大学の夜間部に行こうと思っていたら、受験の直前に父親から「入学金はなんとか用意する。昼間の大学に行きなさい」と言われました。
第1志望に受からず、第2志望の文学部ドイツ文学科へ
大学の授業料は自分で払いました。焼肉屋に喫茶店、家庭教師など、4つのアルバイトをかけ持ちしました。自宅から学校が遠いため、途中から古い団地に一人暮らしを始めました。苦学生のようですが、正直に言うと、大学では真面目に勉強しませんでした。
ドイツ語のゼミに50人の学生がいました。男性は8人だけ。そのうちの5人でいつも行動していました。家でじっとしているのが苦手です。お金が余れば飲みに行き、マージャンもしました。若気の至りですが、飲み屋で吹っかけられたケンカで相手にケガをさせ、後で謝りに行ったこともあります。
5人それぞれの役割は決まっていました。私はどこに遊びに行くかなどを決めるリーダー格。勉強ができる友人は皆で共有するリポートを作ります。大学卒業後は別々の道に進みますが、今も定期的に会います。