故郷・種子島で新発想の介護事業 放送作家から転身

介護ヘルパーの人手確保は各地でサービス維持の重荷になっている。 写真はイメージ=PIXTA
鹿児島県の種子島は、鉄砲伝来とロケット打ち上げで有名だ。30年来の友人が理事長を務める社会福祉法人「暁星会」も、この島にある。
最初に彼と出会ったとき、私はラジオ局のアナウンサーで、彼は若き放送作家だった。ラジオ仲間と飲んで食べてチャラい話をする場によく顔を出してくれていた。
その数年後、しばらくぶりに会ったとき、「実は今、こんなこともしているんです」と言いながら渡された名刺に「代表取締役社長」とあった。
梶原「え、社長だったの。何の会社?」
彼「お医者さんが国際医学学会に参加するための海外旅行手配を専門とする会社です」
梶原「そんなの、もうかるの?(私の口癖)」
彼「一般的な旅行と違い、医療の専門知識が必要です。忙しい医師への行き届いた配慮も求められます。旅行先も、世界の様々な地域。単価も高く、利益幅はまあまあ」
母のリハビリきっかけに、故郷で介護・福祉事業へ
すっかりビジネスマンになっていた。彼は故郷の種子島から京都の大学に進み、アルバイト先の京都国際会議場で事務局スタッフや、医学学会の先生たちにもかわいがってもらっていた。そんな話は初耳だった。
医療関係者の人脈を生かしつつ、放送作家で鍛えた「取材して書く技」を使って、多数の医師を取材。医学関連情報誌に何本も連載を持ち、医療や福祉への関心を深めていったのだそうだ。
彼の人生における、さらなる転機はおよそ20年前、種子島の母親が脳梗塞で倒れたことだった。命は取り留めたものの、島にはその後のリハビリを十分に受けられる施設が見当たらず、母を見捨てるようにして東京に引き返すわけにもいかなかった。
「おふくろの老後をよくしてやりたい」。彼は母親の面倒を見る仕組みを必死で考えていた。気がつけば、島には母親と同じように、助けを求めてもかなわない人が何人もいた。故郷を長らくほったらかしたまま、「医療だ、福祉だ」と口にしていた自分を恥じた。